「V・ウルフの自叙伝試作」…自らがヴァージニア・ウルフとして書くと言うこと。まるで生き直しているかのようだ。ヴァージニア・ウルフとして。書き手自らがヴァージニア・ウルフとして書く方法を選択すると言う事は、即ち書く事で、ヴァージニア・ウルフの病を、創作活動を、或いはそのすべてを含む生そのものを、生き直す事を選択すると言う事ではないのか。慎重に、誠実に向き合う過程において。書かれた言葉、文章の、そのすべてを読み尽くそうとする試み、自らもまたその生を生きるようにして、かの人と関わろうとする試みの中において。最早そのような方法をもって書くほかなかったのではないかと思う。読むこと、読んだこと、或いは自らの体験したすべてを表現するためには。
まったく関係はないのだけれども、個人的にはヴァージニア・ウルフが目にした光景として言葉にするものの昏さと激しさとそれが内にて広がり燃え滾る類のものである事、そしてそれを見尽くし向き合い続けようとする殉教的なまでの執拗さと言うか徹底ぶりに、高橋たか子を思い出すなどした。〈なぜなら彼女は自らをあざむくことなく、孤独と苦しみの中で、自己の内的世界のもろもろのふしぎな事実を驚きの眼で直視し、できるかぎりこれらの事実を理解しようとつとめ…〉著者がヴァージニア・ウルフを語る言葉によって高橋たか子を思い出したと言うべきか。自分にとって、それはそのまま高橋たか子を語る言葉であったとも言える。