2021年11月26日金曜日

『神谷美恵子著作集4 ヴァジニア・ウルフ研究』

書かれた言葉、その文章のすべてを読み尽くそうとする。網羅しようとする。そうでなくては何も語り得ないのだと。何一つ断定する事は出来ないのだと。まるで生きるようにして読んで、己が身を以って、ヴァージニア・ウルフその人と関わろうとする。〈病と人と作品と〉…、そう述べてもいるように、それらが密接に、分かち難く結び付いていること。かの人の生において。書くことの必然性。自己治療としての、或いは自らの見たもの、病を含むその体験と、自らの現在の距離をはかるための手段としての創作。書くことこそが即ち生きることであったかのような…。著者は自らが生き直すようにして読んで、読み続けて、ようやく納得する。明らかにすると言うよりも、自らが生き直した結果として、確信する。
 「V・ウルフの自叙伝試作」…自らがヴァージニア・ウルフとして書くと言うこと。まるで生き直しているかのようだ。ヴァージニア・ウルフとして。書き手自らがヴァージニア・ウルフとして書く方法を選択すると言う事は、即ち書く事で、ヴァージニア・ウルフの病を、創作活動を、或いはそのすべてを含む生そのものを、生き直す事を選択すると言う事ではないのか。慎重に、誠実に向き合う過程において。書かれた言葉、文章の、そのすべてを読み尽くそうとする試み、自らもまたその生を生きるようにして、かの人と関わろうとする試みの中において。最早そのような方法をもって書くほかなかったのではないかと思う。読むこと、読んだこと、或いは自らの体験したすべてを表現するためには。 

 まったく関係はないのだけれども、個人的にはヴァージニア・ウルフが目にした光景として言葉にするものの昏さと激しさとそれが内にて広がり燃え滾る類のものである事、そしてそれを見尽くし向き合い続けようとする殉教的なまでの執拗さと言うか徹底ぶりに、高橋たか子を思い出すなどした。〈なぜなら彼女は自らをあざむくことなく、孤独と苦しみの中で、自己の内的世界のもろもろのふしぎな事実を驚きの眼で直視し、できるかぎりこれらの事実を理解しようとつとめ…〉著者がヴァージニア・ウルフを語る言葉によって高橋たか子を思い出したと言うべきか。自分にとって、それはそのまま高橋たか子を語る言葉であったとも言える。