〈テクスト(歌う声についても同様だ)に対しては、全然形容詞的でない、これだという評価しか下せない。更にいえば、私にとってはこれだということだ。〉〈テクストの快楽については、どんな《論文》も書けない。検討(内省)もほとんど不可能だ。すぐ中断される。…それでも、私は、すべてに逆い、すべてに抗して、テクストを楽しむ。〉…肉体をもって接すること、愛すること。この上なく繊細に、おおらかに。あますところなく、限定的にならないように。その熱情と恐れの、痕跡の断片。どうしたって官能的に読むほかのない本。
〈…しかし、先日アミエルを読んでいた時、というより、読もうとした時、生真面目な(またしても快楽を締め出すもの)刊行者があの『日記』から日常的な細部、ジュネーヴの湖畔の天候を削除して、無味乾燥な倫理的考察だけを残した方がいいと考えているのを見て、いらいらした。古びないのはあの天候であって、アミエルの哲学ではないはずなのに。〉〈「テクスト」は「織物」という意味だ。…われわれは、今、織物の中に、不断の編み合せを通してテクストが作られ、加工されるという、生成的な観念を強調しよう。この織物—このテクステュール〔織物〕—の中に迷い込んで、主体は解体する。自分の巣を作る分泌物の中で、自分自身溶けていく蜘蛛のように。〉…ロラン・バルトを読むことは、この上なく官能的な体験だ。特にこの『テクストの快楽』と言う書物を読むことは。