2023年8月13日日曜日

『天上天下 赤江瀑アラベスク1』

〈流れ流れてなお尽きずこの足もとへ寄せる水の、その悠久たるものの現存することが、なにをおいてもまず、やはりふしぎに酩酊的である。手を浸せば指を濡らし、たなごころに掬いあげられ、口に運べば含めもする水。〉〈指先で触れている海峡の水に、わたしが肉体を感じるのは、この接触をさらに進め、もっと深く親密に触れ合い交わったなら、と不意にけたいな衝動に駈られたりすることにも拠る。つまり、流れる水に肌で接し、その接触をもっと深め、どんどん深め、わが肌にあますところなく水の肌を、水の肌にあますところなくわが肌を、接し尽くし、隙間もなく触れ合い尽くして、おたがいが完璧におたがいをからめとり、相擁し合ったとしたら…〉 「海峡──この水の無明の眞秀ろば」を読むことは即ち、この水を相手取ることだ。単に書き手と水との接触の、その戯れと思索の結実としての言葉を読むのではなく、そのように表層的な体験などではなく、もっと肉体的な、衝撃を伴ってもっと物凄まじい、自らもまたかの水と直面しつつ、深く交わりつつ、水に触れつづける書き手の快楽を、欲望を、高まりを、恐怖を、慄きを生きることだ。水に触れつづける指を、肌を、肉体を生きること。かの水、海峡。はじまりとしての、誘惑するものとしての、呼び覚ますものとしての、超えるものとしての、照らし出すものとしての、映し出すものとしての。例えば腐爛魚の、また血天井の深さ凄惨さ。幸を含み汚穢を含み、魑魅を含み魔を含み、あらゆる夢を含み、あらゆる夢の源となり。無限であって、悠久。或いは分かち、隔てるものとしての。生と死を。此の国と彼の国を。至るべき地点と現を。越境帯。往還道。魔境めいた領域を現出させるものとしての。かの水、海峡。そのようなものに触れ、交わり、直面すること。それは極致めいて恐ろしく、凄まじく、酩酊的であることなのだ。

 「星踊る綺羅の鳴く川」もまた物凄まじい…。〈…太い、大きな、どぶ泥いろの底なし川だ。耳を澄ますと、その水音が、鳴りとよもして聞こえてくる。怨霊、亡霊、妖怪、変化も棲みついた深いうねりの暗闇川だが、耳にはふしぎにその濁り水が、綺羅びやかなものたちのさざめく音に聞こえるのだと〉そこに確かに流れる血を汲みあげること。吹き出す血を、ほとばしる血を汲みあげること。魅入られることでしかたどり着くことの出来ない領域と、そこに棲まうものたち。魔のものであり美であるものたちの領域。

金井美恵子『迷い猫あずかってます』

新潮文庫版、エッセイ・コレクションと、何度読んだかわからない。猫、トラーちゃんのその見飽きなさ、都度更新されて行く実感と感動、まさしく〈日々、新しく知りあった生きものとして目の前に存在〉していたのだ、トラーちゃんは。〈外で顔をあわせて、トラー、トラ、トラ、と呼ぶと、駆け寄ってきて、ン、グググググ、とノドを鳴らす。最初の、ン、という声は、ニャ、という音を出さずに口を開いて鳴くものだから、ニャンという声の、ンだけが音になるのである。〉〈…とはいえ、猫が眠っているとついこちらのほうから額を押しつけたくなる気持はよくわかる。手で触った時とは別の、眠りですっかり熱くなった猫の耳や柔らかな額の毛並みや毛並みのすぐ下の、少しゴツゴツした小さな額の骨の感触がこちらの額に伝わってきて、それはとても良いものなのである。〉そして眠りこける姿、〈「充足」そのものが柔らかな毛皮に包まれ、あたたかい呼吸に息づいて、このうえない熱心さで睡眠を遂行している〉姿の、〈窓から差し込む光のなかで、呼吸するたびに〉〈泡立ちながら波打つ〉フワフワした杏色のお腹の毛!「ペット」というものが〈いったい何なのか、人間にとってどういう存在なのか〉といったようなことを考えることよりも、〈「観察」したり一緒に遊ぶほうが面白いので、そうしている〉…まさしくそのようにして、〈猫という生き物を、生き物として愛している〉人の言葉であろうと思う。それはもう、何度だって読んでしまうのだった。 
中公文庫版には本編の後に〈トラーの死とその喪失を綴った三篇〉が収録されていて、元気いっぱいの頃と晩年って、それはやや唐突なのではないかと思っていたのだけれども、「トラーの最後の晩餐、禁煙その他」の中で〈ホタテ貝殻形の小型のグラタン皿〉という言葉を目にした瞬間、その〈十八年間使っていた〉グラタン皿と、『迷い猫あずかってます』の本編中に登場する元気なトラーちゃんが使う〈貝殻型のグラタン皿〉の間に流れた時間として、或いは今現在との間に流れた時間として、金井美恵子のいくつもの小説やエッセイ、『噂の娘』や『ノミ、サーカスへゆく』や『目白雑録』や『待つこと、忘れること?』や『猫の一年』や『たのしい暮しの断片』が、それらを読んだ記憶が、それこそ奥底から溢れ出すように一気に甦ってきて、たまらずに泣いてしまう。そのまま中公文庫版のあとがきと解説でも泣いてしまう。時間が流れ続けていることの事実そのものとしての、いくつもの小説やエッセイによって、或いはそれを引き出されるようにして思い出すことによって、涙は不意に溢れるのだと思う。 

〈…路地をはさんだ向こうの、昔ながらの下見板張り造りの二階家が裏手を見せて何軒か並ぶ屋根の上にも、猫が二匹並んで眠っているのだった。〉〈多少汚れた白地に赤トラ柄の猫とミケ柄の猫で、冬の早い午後のあたたかな日差しを浴び、からだをくっつけあうようにして、顔を半ば前肢の間に埋めた姿勢で、遠目にもお腹が呼吸につれて規則正しく微かに上下するのがわかる。〉武田花の写真を思い出す。これは武田花の写真で見た猫だ、と思う。

 〈五・五キロの猫が、ボールペンのキャップに噛みついてガチガチ歯をたてるので、キャップは穴だらけですっかり変形してしまうし、凄い力が加わるので「エクリチュール」はなにかと滞る。〉作家の書く手のすぐ側に、猫や犬が、人間とは別の生き物がいる光景というものが、個人的には好きなのだ。

2023年7月2日日曜日

山尾悠子『迷宮遊覧飛行』

何を読んで来たのか、或いはそれらを読むことによって、如何にして書いて来たのか、如何にして書くことになってしまったのか。夢の孵化作業。山尾悠子の小説のことばかり思い出す。山尾悠子という作家の、言葉によってのみ形作られる世界の、小宇宙のことばかり。〈ひとつのイメージを中心にして正しい磁力が発生すると、磁石に吸い付く砂鉄のように大量の言葉が付着してくるものだが…〉印象的な磁力のイメージ。何に引き寄せられるのかと言うこと。何に引き寄せられて来たのか。吸い付く言葉、付着してくる大量の言葉の出自。言葉は、イメージは、いずこから来たのかと言うこと。いずこから侵入して来たのか。〈悪い夢で膨張していた頭蓋の中に〉。何に共鳴し、何をあたため、孵化させて来たのかということ。言葉は、夢は、なにによって引き出され、腐敗し、発酵させられて来たのかということ。〈ことばだけを材料として緊密な架空の世界を構築し、かつ破壊すること。〉〈創造する架空の世界が人工的であればあるだけ、最後にはそれを破壊してしまいたくなる。破壊し崩壊させることで人工の架空世界は完結し、空中に浮かぶ楼閣のごとき完全無欠なものとなる。〉〈で、当然のことながら、このささやかな短篇は、最後のこの崩壊の時に行きつくためだけに書かれたわけであり、言い換えるならば、最後に破壊するために"創造"したわけである。〉…その〈緊密な架空の世界〉を創造させたもの、作家を創造することの方へと向かわせたもの、或いはその世界を〈破壊し崩壊させ〉たもの、自ら創造した世界を、小宇宙空間を、滅ぼし破壊することの必然性への方へと、作家を向かわせたものたち。 

埋め込まれていると言うか、言葉の原形質としての、創造された世界の原風景としてのシュオッブ、〈「眠れる都市」「大地炎上」の眠りと滅び、ほの暗い架空世界の有り様〉の印象深さ。そしてそして、金井美恵子作品への言及。〈大学に入って、現代詩文庫『金井美恵子詩集』からはリアルタイム。〉なんて羨ましい…。〈大型の薔薇色の詩集『春の画の館』』〉から〈直接影響を受けて、私は〈処女作〉「夢の棲む街」を書くことになった〉…僥倖ともいうべき連鎖反応。読むことで、読んだことで、書くことになってしまうのだ。『春の画の館』からの波及。〈書くことになった〉という言葉に素朴に喜んでしまう。書くことの方へと向かわせる、書かれた言葉というもの、或いは書く手というもの。 澁澤龍彦『うつろ舟』の「ダイダロス」を語る言葉、〈作者と読み手とのあいだに鳴り響く幸福な共感〉〈作者によって愛された幻想は、決して孤立したものではないのだ〉…これは本当にそう思うし、山尾悠子という作家その人の小説群もまたそうであろうと思う。

多田智満子『十五歳の桃源郷』

詩人を形作るもの、原風景、詩人の言葉を形作る原初の風景とでもいうべきもの。〈水稲が生育するにつれて、まばらな黄緑から密生したエメラルドグリーンに、そして蛙の大群をひそませた濃緑に色を変え、やがて穂を重く垂れながら黄ばんでいくのを私は見た。〉〈雨もよいの空になると、山々が異様に色濃くなり、ぐんと目近にせり出してくる。ざあっと風が吹くと稲葉がみどりのたてがみのようになびいて、水脈に似た風の足跡が残る。〉〈そう、そのころ、すべては新鮮で、めざましく、美しかった。〉…原初の風景であり、色彩であり、美しさ。まさしくそれは、失われていることによって、時間というものの流れの外に免れていることによって、桃源郷なのだ。川という水によって隔たれていて、そこへと至る橋は途中で切れていて、もう二度と辿り着くことの出来ない桃源郷。或いは一冊のマラルメ、〈マラルメのなかたには、後々まで私にひそかな影響を与えたかもしれない一種の感性の様式がある。それは《眼ー湖水(蒼空)ー鏡》という自意識の図式で…〉或いは謡曲、或いは胡瓜の舟。悠長尼の頃。 
多田智満子は自然の相というものにこそ、鋭敏に感応する。移ろい行くその驚異に対して、或いは音の色、或いは生と死のあわいというものの放つ光と陰りに対して、つねにみずみずしく感応する。〈船が進むにつれ、滝は次々とあらわれるけれど、互いに何のかかわりもないといった表情で、それぞれが自分の山上から青黒い海面へと、この北の果の国で、おそらく太古の昔から、しらじらと、たったひとりで落下しつづけているらしかった。〉何にも混ざることなく、〈太古の昔から、しらじらと、たったひとりで落下しつづけている〉水に、かの詩人の言葉は最も似ている、と思う。清澄な悠久の水。原初の水の美しさのままに、悠久に遊び、ふりつもっていく言葉。鏡を通して結ばれる『高丘親王航海記』と詩人のテオーリア。鏡像の戯れ。限りなく美しい本。この本自体が、何かこう幽玄の、非現実の相を帯びて、桃源郷めいている。現世のあらゆる制約を免れて、その外にあって、美しく、夢のように、存在している。

 「ユートピアとしての澁澤龍彦」…〈彼の精神は、猥雑で混沌とした現実の世界よりも、ユートピアのように、夢想的な組織者たちが造型した、輪郭明瞭な世界、完結し、閉じられた宇宙を語るのに適している。〉

ハン・ガン『すべての、白いものたちの』

白、すべての白いもの、〈ひたすら清潔な〉それではなく、〈生と死の寂しさをこもごもたたえた〉白…生と死の哀しみを含んで、そのあわいにあって、こんなにも美しい。贈るための、捧ぐための言葉。研ぎ澄まされて厳しく、儚く、極限めいて行く。目を背けるのではなく、包み隠すのではなく、生きてみること。生きてみせること。〈汚されても、汚れてもなお、白いもの〉たち…〈私たちの中の、割れることも汚されることもない、どうあっても損なわれることのない部分〉を信じることから、この祈りにも似た小説が書きはじめられているのだということ。
破壊と復元。鎮魂と再生。とても静かだ。沈黙を凝縮して白く、静謐で美しい。静謐そのもののように美しい。恢復はこのように静謐の中でこそ、白く美しい静謐の中でこそ、辿り着くことが出来るのだろう。余白に沈殿するもの。余白は沈黙を含み、沈黙に沈殿する語られることのない無数の言葉を含み、張り詰めている。ふるえる言葉。ふるえるようにして空白を満たして行く言葉。余白を含んで研ぎ澄まされていると感じる。厳しく、儚く、極限めいて行くと感じる。

金井美恵子『道化師の恋』いくどめかの感想

何回読んでも楽しい。その批評性とか時代感覚や日常感覚の敏感さとかさまざまな言説や書かれた言葉や細かで具体的な物や人や情景の集積であると言うか魅惑的なスクラップブック感とか当て擦りの的確さとか諸々思い知らされて笑ってしまう痛快さとか、読む楽しさでいっぱい。登場人物なんて誰ひとり好きではないのに、好きでもないその人たちの生きている"今"というものを濃密に生きさせられると言うのに、何度読んでも面白いのがすごい。ちらっと出る『タマや』勢は別です。いつ読んでも楽しいし、読むたび楽しいのだけれども、このシリーズを自分の生きる"今"として感じてみたかったと言うか、このシリーズが書かれたその時分に読みたかったなあとも思う。
 たくさんの本や文章や映画や人や仕草や習慣や匂いや服や食べ物や、滑稽なものやおかしなものや鬱陶しいものや差異や伝わらなさやうんざりするものや好きなものや嫌いなものや楽しみや退屈なものや馬鹿馬鹿しいもの、などといった、そこかしこにあったりありふれていたり珍しかったりするそれらのコレクション。金井美恵子の言葉はそれらを強烈に生きさせる。鬱陶しさやうんざりすると言った感覚や滑稽さなどは特に、濃密に生きさせる。快楽とはまた違った鮮やかさを以って、活き活きと読む者に生きさせる。小説を読むことと書くことにまつわる言説のコレクション。小説を読むことの、読み方の、読まれ方の、読まないことの言説のコレクション、小説を書くことに対する言説のコレクション。とかくこの世はままならぬよ。〈…木の種類によって微妙に違う様々な緑の葉がきらきら光り、丘の斜面の草やシダの上で木もれ日が踊るように姿を変え、光の斑点がふるえ、湿った土の匂いと植物の匂いと水の匂いがあたりにたちこめ、水の流れる柔らかなTとRとPの音の連続が響き…〉金井美恵子の光や水や夏を読むという官能的な喜びも、そこには当然ある。

 傍点の優雅さ鮮やかさを楽しむ。辛辣で的確な傍点。巧みに埋め込まれている引用の言葉こそが、或いはその言葉に振られた傍点こそが、浮かび上がらせる。如何に馬鹿馬鹿しくて愚かしいか、如何にありふれているか、如何にずれていて鈍化しているか。笑ってしまうほどに、思い知らされる。

『金井美恵子全短篇Ⅱ』メモ

Ⅱには必然的に『単語集』が組み込まれている。波及する言葉、引き起こされた小説。〈夢の中で、自分の今までの人生のすべてが、行為や自分の考えるあらゆる言葉が、すべてにどこかに書かれてあることをなぞっている、ということを発見する。このことは百科事典ほどもある大部の書物に書いてあるのだった。〉〈記憶しているあらゆる出来事が、その本のなかに、末尾の項目別索引付きできちんとまとめられ、出典を示す記号が付されていた。非常な好奇心と恐怖をもっとその本を読みはじめるが、実はその瞬間、今、その本を書きつつあるのが自分自身であることに気づく。〉枝分かれする水の中で無数となるわたし。「境界線」はそれこそ只中だ。横たわりつつ感じ尽くすべき渦中。〈それから、あの溺死体。それから語り得ないものの内部で屈折した光線の形づくる、曖昧な沈黙の意志によって何回も何回も繰り返し言葉を失う声。出発するだけで、わたしはどこにも到着したいとは願っていないのだ。決してどこにもー。〉〈瞬間ごとに変わる名前で、瞬間ごとに変化する生きて獣のように動いている言葉で、わたしはこの水死体を呼ぶことになるだろう。彼女は世界と等しい数の言葉で呼ばれるだろう。〉…波及する言葉によって世界が繰り返し、無数に引き起こされて行くそのはじまりの、まだ未分化の瞬間に立ち会うような。 

「花嫁たち」を読むことのスリリングさ。エピグラフを含め。ここが深部であると感じる。書くものの手に、言葉と直面するものの、まさに今、言葉と直面する、それを書こうとするものの手に、限りなく近づく、限りなくそこに迫り、それを生きる体験であると感じる。その慄きごと。書く手の直面する言葉というものを感じること。言葉そのものを感じること。肉体をもって。官能をもって。触れること。交わること。聴くこと。溶け合うこと。〈溺れかかる過剰な水の夢など見はしない。むしろ、ひっそりと熟成する水蜜桃の夢に似た眠り。〉…世界を触知するための肉体としての言葉。夢の水の中で輪郭を失い、やがて無数と化して行く〈わたし〉という触知する肉体。書かれた無数の言葉によって小説は引き起される。連鎖反応のように。波及する言葉。呼び水たる言葉。引き起された小説と、無数の〈わたし〉、無数と化すそれら。

「調理場芝居」まで行くと、〈私は小説を書きはじめた頃から、長い長い一つづきの小説を書きつぐ途次のなかで、いつでも書きつづけてきたのである。〉という金井美恵子の言葉が、読むことの内より浮かび上がって来る。 最後には「既視の街」が。様々な匂い、臭気、饐えたような、甘美な、不快な、揮発性の。熱気、息遣い、声、物音、或いは沈黙、汚れと埃、よどみ、沈殿している、空気。湿気とねばつき、あらゆる粘度の水。雨、靄。かたまりのような、黒く、灰色の。或いは光、光沢。虹。濃密にたちのぼり、滞るそれら。出鱈目に複雑に増やされて行くように。それでいて閉ざされているように。都度新たにかき加えられて行く線と訂正の印。錯綜する、入り組んで行く。あの内部。或いは都市。建設と破壊。不定形の建物、無数の折れ曲がりを持つ路地、唐突に現れる入り口と空白。起伏、幾重もの層。《土地》そのものの地形と〈今ではもう見分け難く密着した建造物が、別の地形をつくり出している都市〉…。既視感。決して同一ではない。繰り返されて行きながら、それは決して同一ではなく、ずれて行く。〈わたし〉が複数の、無数の、〈わたしたち〉によって、共有されているかのように。ずれて行く。浸透し合うように。〈夢もなにもない、眼ざめた後では覚えていない夢さえもない眠り〉へ、〈永遠の現在に生きている哺乳動物の夢のような夢さえもない眠り〉へ落ちて行くこと。けれどきっと、〈わたし〉にそのような眠りは訪れないだろう。語ることを命じられている以上。魅惑されている以上。それが決して辿り着き得ない、常に見失い続ける類のものである以上。(…これが桃ちゃんまで行くと、グウグウ、グウグウ、十六時間も眠ってたくさんの夢を見ても、〈ここでは、あたしは自分の見た夢について書いてみる気は全然ないわけよ。〉と言ってしまう。)「既視の街」に限らず金井美恵子の〈わたし〉の語りは複数の〈わたし〉が奪い合うものではなく、複数の、無数の〈わたしたち〉が共有し合うものだ。互いに溶け合い、混ざり合い、浸透し合う無数で唯一の〈わたし〉が。 

 出来得る限り享楽的に読む。やっぱり「桃の園」が自分には一つの境目であるように感じられた。「桃の園」までに書かれた小説を含み、「桃の園」以後に書かれる小説を含み、ここから波及して行くように、枝分かれして行くように思える。桃、〈孤独な夢の水蜜桃のように〉…〈「ある春の日に、ピンクの花を咲かせた黄桃の実のなかに、甘い蜜が湧いて、熟して、したたるように」して〉書き始められた小説。そのようにして言葉は、小説は書き始められ続けるのだということ。