2022年8月14日日曜日

金井美恵子『猫の一年』

書かれていることは、勿論それだけではないのだけれど、自分にとってこの本は、トラーちゃんがいなくなってしまう本なのだった。「再び、の前に」「最後の一年、最初の一年」…〈飼猫が死ぬということ〉として、〈もう出来ない〉こと、〈もうない〉こととして語られるひどく細かでささやかで重要で具体的な仕草や動作や声や音や習慣を、トラーちゃんとの親密さそのものであるかのようにどこまでもつぶさに繊細に鮮やかに語られるそう言ったすべてを読むこと。〈…こうして夕方、原稿を書いていると〉〈台所で食べ物をもらってペチャペチャ口のまわりを舐めながら歩いて来て、私の机の下で一眠りしようとするトラーがいないのが、いかにも不自然なことに思えるのだ。〉金井姉妹はトラーちゃんがいないと言うことを語り合うのではなく、ただ〈つまらないねトラーがいないと〉と言いあう。トラーちゃんがいないとつまらないのだ。これは本当に、この上ない言葉であるように思う。自分にとって金井美恵子のエッセイを読むことは、特にこの後に書かれることになるエッセイ(及び作られることになる本)、例えば『たのしい暮しの断片』などにおいて、金井姉妹が〈職業柄ひどく古風に〉トラーちゃんをまさしく〈絵と文章と記憶の中で、飼いつづけている〉ことを実感することでもあるのだ。 

何に目を奪われるのかと言うこと…〈ボールがそれを一番扱いやすいはずの手ではなく——と言っても、私はゴムマリを使うマリつきで、右脚をあげたまま手を左右に素早く動かしてマリをバウンドさせ左右に往復させる技術を、全然覚えられなかったのを思い出した——足と頭と胸で扱うことだった。〉その〈「ハンド」を使わず足と頭と胸板だけが、ゴール・キーパーを除いた選手たちに許されたボールとの接触面である〉と言う〈いくらなんでも馬鹿げていると子供心に思わずにはいられない〉〈おかしくて変で凄く面白いもの〉の〈単純な面白さ〉に、そしてそれは〈記憶を通して映画のフィルムとわかち難く結び〉ついているものでもある訳で、金井姉妹の暮しに〈「スカパー!」でフットボールを見る習慣〉が加わったことも、それはまあ確かに、然もありなん、と思う。自分は幼稚なまでに、愚鈍なまでに、〈相変わらず、絵を描き、文章を書いている。〉と言う言葉を、信じ切っている。金井姉妹の姿としてのその言葉を、馬鹿みたいに、ずっと覚え続けている。〈…そのようにして平穏な生活の水面(淀んだ?)には、蛙がとびこんだとでもいうように、不意に言葉の小波がふるえる水輪を多分、水の音と共にバイブレーションさせる瞬間が繰り返し訪れてしまうのだ。〉そのようにして書かれる、書きはじめられてしまう小説を、自分はずっと愛し続けている。

 〈(たとえばウール混の毛並のフワフワしたクマの足の上に、毛糸の編みぐるみで、帽子とマフラーを着けた小さなクマを置いたり、シュタイフ社のカラスの丸い頭部にぴったりの大きさのアンデス風の毛糸の帽子を被せたりしながら、ぬいぐるみたちの会話台詞を考えたりする……)〉そして当然そのぬいぐるみたちが〈何かを象徴したりはしないで、普通に可愛らしく、しかも、がらくた然として置かれているだけ〉なのであることも自分が金井美恵子を好きな所以。