2021年9月21日火曜日

金井美恵子作品雑感5 石井桃子を語る金井美恵子の言葉を、経験済みの体験、として感じる事の意味

「私の幼年時に埋め込まれた一部分」や「絵本による愛撫」や「プーの森の外で」や「記憶と言葉」や「ちりあくたの輝く「本の小部屋」から」などを読み返すこと。自分は最近、金井美恵子の作家としてのモラルは、石井桃子の影響と言うか、石井桃子を読むと言う体験によって形作られた部分もかなり多いのではないかと思うようになった。映画と共に金井美恵子を金井美恵子たらしめる、最たるものとしての石井桃子。石井桃子を読む、その体験によって生成されたモラルの実践。 
何をもって自分はそう思うのか。重要なのは当然、石井桃子を語る金井美恵子の言葉であり、また自分がその言葉を、知っている、と感じる事なのだ。即ち、〈いしい ももこ及び石井桃子の名がしるされた「本」〉を、繰りかえし読むことが可能である理由、自らにとって、〈そうすることによってその魅力がますます深まる数少ない「本」でありつづけている〉その理由を紐解こうとする金井美恵子の言葉、〈幼い時の記憶を語りながら、ひそやかに、だが本質的な「体験」として示〉し、〈「お話」を聞くことと読むことを濃密に取り巻く鮮やかでなまなましい細々とした幼い日々の記憶の細部の数々〉こそが、石井桃子的世界であるが故に、〈自伝的小説の持つあられもない生真面目さで肥大した数々の〈自己の物語〉の醜悪さと、ひっそりとおだやかに甘美に対立〉して存在するその作品について語る、〈石井桃子は忘却と記憶の現前というおそらくは文学史上の特記されるべき主題を、おだやかでつつましい日常生活の濃密な細部を通して語るのである〉と言う言葉…読むことでよみがえる〈幼い日の身体的な記憶〉、〈それが石井桃子の書いている文章と重なりあい、読者である私を「もう一度改めて生きたような気持ち」にさせる〉こと、〈記憶は常に具体的な「場所」のなまなましい光景と共に、一見、日常茶飯な雑事を通して、鮮やかな「時間」として再度生きることが可能なのだということ〉を告げもする、石井桃子の文章を、石井桃子を読むと言う体験を語る金井美恵子の言葉を読むことで、自分がなぜ作家としての金井美恵子のモラルとでも言うべきものの中に石井桃子と言う存在の大きさを感じるのかと言うと、それは自分自身が金井美恵子を読む事で、そう言った体験、身体的な記憶や感覚を呼び起こされ、今一度生き直すような体験を、実際的に幾度となく経験して来たからなのだろうと思うのだ。石井桃子を語る金井美恵子の言葉を、自分は知っている。単に読んだ事があるから、と言うだけでは当然なく、体験として知っている、と思うのだ。その多くを自分は金井美恵子の作品を読むことで、幾度となく体験して来たように思うのだ。金井美恵子の〈幼年時に埋め込まれた一部分〉であり、その文章を読んでいなかったとしたら、作家になっていたどうかさえ疑わしいと言う、石井桃子の「お話」の重要さ…。 

 ページをめくる指の楽しさの、原初に位置する存在としての石井桃子。幼い日の〈ページを指でつまんで開く動作〉や〈本のページを開きめくる指〉そのものと結び付き、記憶された存在としての。そしてその指によって書かれるのだと言う事。ページを開きめくり、開きめくることの楽しさを知る、その指によって。石井桃子に魅惑された体験としての指によって書かれ、実践されるモラル。