2019年7月28日日曜日

皆川博子『薔薇密室』

始まりの素晴らしさよ。その妖しさ…。信じられぬほどに煽情的で、蠱惑的である光景。退廃の、冒瀆の、甘やかな瘴気に満ちている。その誘惑の恐ろしさ。暗く、不気味で、おぞましい誘惑の。その抗い難さ。喜びの、その陰惨さ。密やかで、醜く、歪な喜びの。その濃厚さよ。暗く、忘れ難く、強烈な愉悦…汚れのない煌めき、崇高な美への憧憬…陰鬱に、歪に高まり行く欲望と期待…嫌悪、羨望、憎しみ…複雑に、密やかに、危うげに渦巻いている。その甘美さ。毒のよう。腐り行く恍惚。
より陰惨に、より魅惑的に、物語は深まって行く。より邪悪に、より残酷に。より悲しく、より恐ろしく。物語は高まって行く。読者はやがて正常さを失う。幻と現実の。偽りと真実の。その歪み、境目のなさ。わからなくなって行く。緩やかに、けれど着実に閉ざされて行く。危うい平穏。不穏さに満ちて行く。気付けばもう逃れる事は出来ない。

物語に溺れる。物語に沈む。極まり行き、おぞましく、邪悪に膨らんだ。物語に狂う。その威力の強大さ。物語は容易く踏み躙り、奪い、壊す。読者として選ばれた者達の生を。容易く操り、捻じ曲げてしまう。怒りを、憎悪を、或いは陶酔と羨望の感覚を、鮮やかに刻み込み。平然と、読者を縛り付ける。それを創り出す者が、求めれば求めるだけ、物語は肥大化し得るものであるが故に。物語はやがて作者さえ、凌駕する。作者すら、飲み込まれて行く。その愚かしく、悲しい事。
未だその感覚の内に在る。物語によって刻み込まれた、強烈な、悪夢のような、その感覚の内に。読者としての役割を終えてもなお、当然、消し去る事など出来るはずもなく。未だ縛り付けられたまま。あまりにも多くのものを失ったまま。けれど確かに、救いはあった。進み行く者への、祈りの内に。陰惨な物語を脱し。真実の残酷さを思い知り。それでも、進み行く事を選んだ者への。願いの内に。甘く脆弱な、幻想めいたそれとは異なる、確かな救いを見た。その強さも葛藤も、壊れ行く様も、抗う様も、その醜さをもよく知る彼女の幸せを、自分も願わずにはいられない。



薔薇密室 (ハヤカワ文庫 JA ミ)
皆川 博子
早川書房
売り上げランキング: 462,708