2021年6月4日金曜日

金井美恵子『カストロの尻』

幾つもの記憶。魅惑的な幾つもの。光景、感覚。快楽。繰り返される、無数の。自らのものであり、誰かのものであるそれら。甘やかなかつて。或いは残骸。廃墟。壊れたもの。崩れたもの。今はもうないもの。不在。老いたもの、滅び行くもの。何一つ見過ごしてしまう事のないように、触れ、感じ、生きるようにして読む。色濃く、鮮やかに立ち上る、再現される。何もかもが、魅惑と化して、快楽と化して、或いは痛みと、苦しみと化して。繊細に、緻密に、驚くほど細かに、反芻するように、それこそやはり、まるで生き直すようにして語られ続けるが故に。描写され続けるが故に。立ち上り、再現される。そのすべてを読む、読みたいと求め続ける。
破壊され、侵食された様。老いを、死を、不在を物語る暗さ。或いは美。過剰なまでに輝かしく、艶かしく、甘美な。無数の記憶。無数の光景。所有し、語る者の、その境目のなさ。混ざり合っている。溶け合って行く。確かで不確かな、無数と化している。無数と化して生きる。繰り返し、繰り返し、幾度となく。生き直し続けるように。
記憶の不確かさ、それが本当に自らのものであるのか、確かにそうであったのか、もう誰にも確認する事が出来ない、過ぎ去り崩れ去り、かつてになってしまい、もうそれを知る者は誰もいない、確かめようのなさ、曖昧で、寄る辺のない、不確かさより始まる。書く事で更に遠ざかり、異なり、離れて行く、不毛さより始まる。不在より始まる。やがて魅惑へと広がり膨らみ行く始まりのその、身近で、よく知っていて、ひどくささやかなものである事。思い込みや読み間違い、誤読からさえ、始まり得る。手触りやにおい、色彩の豊かさ、音であるとか既視感、小さな思い違いからさえ当然、続いて行き、広がって行き、やがて魅惑と化し、その迷宮めいている事や、果てのない事を示すに至る。幸福なめまい。想起し続ける事の無際限さ。連想を呼び起こすものの無際限さ。書く者をその始まりへと向かわせるものが、それこそ無数にあるのだと言う事。恐ろしく、けれども幸福な、その終わりのなさ。 

幾重にも重なり合って、出来ている。絡まり合って、結び付いて、出来ている。コラージュ。反復。終わりのない、ひと続きの。その強靭で、唯一無二のものである事。引用と連想、想起し、引き出されたもの、それて行くほかのない幾つもの横道、小説や言説や映像、自ら生きるようにして読み、書いた、或いは見聞きしたものたちとの数多の親密な記憶、かつて感じ、その全身を以って生きた事のある、無数の時間と光景と感覚。書かれ続けるすべて。その緻密さゆえに、すっかり彷徨い込み、生きるようにして読み続ける事が出来る、幸福。触発され、引き出され、やがて自分自身さえ、それと化す。読んでいる自分自身の持つ記憶とさえ、小説は混ざり合う。自らが生きて、読んで、見聞きした、沢山の記憶とさえ、混ざり合い、分かち難く、それこそ糸が絡まり合って、ほどけなくなって、一緒くたになってしまうように、境目なく結び付いてしまう。自分自身さえ、私と化してしまう。読む事の喜びそのものであるかのような、幸福と快楽的な体験を可能にする、開かれていて、無際限に広がっていて、続いている、自分にとって、唯一無二のもの。 
1955年、1957年、或いは戦後。かつて。もう既に滅んでしまっている、壊れてしまっている。既に遠く、過ぎ去ってしまっていて、どこにも見当たらず、今なお存在しているのか、かつて存在していたのかどうかさえ、最早確かめる術もないほどに、失われてしまっている。取り返しようのない事、立ち戻る事の出来なさ。虚しく、絶望的である事。鮮やかなまでに、強く感じる。 
そしてまた、それらの多くが、たやすく見過ごされてしまう類のものであると言う事。鈍重に、偏狭に、見逃され、気付きもされず、そのまま忘れ去られてしまうような、小さく、細かな類の、けれど同時に切実な、まるですべてであるかのように、ある時、ある瞬間の、すべてであったかのように、熱く、重く、切実であるものたち。見えていない、気付いていない、あまりにも見過ごされて過ぎている。世界はむしろ、そう言ったものたちによって出来ていると言うのに。