2021年6月7日月曜日

金井美恵子に関するツイート幾つか 3

『ちくま 6月号』読む。金井美恵子の連載、この細やかさと言うか見逃さなさ、鋭敏さが何よりも必要だといつもながら思う。それは確かによく目にする言説で、危うくそのまま通り過ぎてしまう所であった。金井美恵子の言葉によって、ようやくその違和感に気付く。そのおかしさを思い知らされる、通常通り。 
そもそもだけれどもまず〈重箱のすみから〉と言うタイトルがたまらなくいいし、過去のエッセイ集『重箱のすみ』のあとがきの、そのタイトルについて語る文章をも思い出してつい読み返してしまったりもするし、金井美恵子のエッセイを読む楽しさや必要さをこの上なく物語る、いいタイトルよな、と思う。 

極めて個人的な体験やイメージを想起させもするし、更なる連想へと誘い得る固有名詞と言うものの重要さを考える。金井美恵子の本の中にある沢山のそれ。自分もまた手にし見聞きし身につけ用い、消費し作り、飲み、食べ、大いに好み、或いは嫌い、遠ざけたり近づけたりして関わって来た沢山のものたち。
自分はまず生地、布地…木綿やリネンやウールなどの素材、ブロードやネルやサテンやダブルガーゼなどの種類、織り方を表す言葉を目にすれば、手触りや着心地や風合いや値段や主に購入する手芸屋や裁断する時の心地や扱いやすさや何を作るのに適しているかや身近さや身遠さと言った事などを想起する…。 
とかく細部なのであるよなあと思う。書くことの不毛さをも含んでなお細部に淫するようにして書かれた魅惑の文章の細部に、自分もまた淫するように読んで魅惑されたいのだ。 

『柔らかい土をふんで、』巻末、「柔らかい土をふんで、と書きはじめ、柔らかい土をふんで、と書いてペンを置いた今、」を読むたび、自分は泣いてしまいそうになる。幸福で、幸福で、金井美恵子の言葉によって高まり、満たされ過ぎて、泣いてしまいそうになる。読むことの喜びそのままであるかのよう。月並みで陳腐で気恥ずかしい表現になってしまうのだけれども、金井美恵子を知って、今読んでいる事を、読んでいる自らを、祝福したくなる。 自分は金井美恵子を読むために生きていると思う。

『噂の娘』執筆前に金井美恵子が〈ボール紙二枚に描いた〉と言う〈商店街の見取り図の地図と、美容院の間取り図〉だけれども、何かしら奇跡的な間違いが起こり、巡りに巡って自分の元に来ないだろうか。 

生きるようにして読む事、読む事で生き直す事、生き直しているとしか言いようのない体験をする事。金井美恵子を読むと言う事。自分は金井美恵子によってそれを知った。

〈ずるずると目の前の魅惑するものについて書いていきたい、という欲望…〉と言う、かなり剥き出しのものなのではないかと思える金井美恵子の言葉を噛み締めて生きて行きたい人生。

全短篇を手にしたからと言ってもう、持っていない短篇集を買わない訳では、当然、決してないのである。金井美恵子の本はすべて欲しいし、すべて所有したいのである。 

 天然生活6月号の金井美恵子の連載読む。ジャム!アップルパイ!まずは香り、始まりは香りであって、そして味、舌触りと歯触り。甘さや豊潤さや瑞々しさ広がるあの瞬間の、喜びに満たされて行くあの瞬間の、まずは香りから始まる特別な、食べると言う行為の中でも一等特別な、あの幸福の記憶について。 

 天然生活5月号、金井美恵子の連載「小さな暮しの断片」読む。今回は"杏のはなし"だった。杏仁。アンニン、キョウニン。味と香りと感触の快不快の思い出、感慨、違和感、様々。いずれも細かでささやかで小さく手に近く身体に近く馴染み深い。

『恋愛太平記』2巻のあとがきが好きで好きで何度も読んでしまう。金井美恵子が「手本」にしたと言う〈細部に淫することで生じてしまう小説の物語的機能の失調状態の楽しさ〉こそが、自分を幸福へと誘う。極めて内々で個人的で密室的で、それ故に強く色濃く強靭である幸福へと。 
『恋愛太平記』は本当によかった、素晴らしかった。金井美恵子作品はいずれも素晴らしいけれど、殊更に。とりとめがなくて、膨大で、豊かで、繰り返し、繰り返し、途切れる事なく続いていて、読んでいたあの時分の事、今思い出しても幸せだったなあと思う。読む喜びと楽しさで、幸福に満たされていた。何と言うかもう、自らもまた体感して生きていたとしか、自ら見聞きしていたとしか、言いようのない状態であった。生き直していた、自らの内にある記憶や情景や感覚をも引き出されたりしながら、読む事で生き直していた、としか。読み終えた時、満ち足りて、満たされ過ぎて、泣きそうになった。このような本を自分は求めていたのだと思った。そして手紙を書いたのだった。どうしても手紙を書きたいと思ったのだった。今思い出しても幸福な、楽しさと充足の記憶。