金井美恵子の言う武田百合子の〈銅像の楠正成という歴史的人物ではなく、それが乗っている「馬」が「静脈なんかまで浮き上らせて作ってある」ことにこのうえなく自然に感応しないではいられない感性〉と、同時に〈母は雑誌等に書いた随筆を本にする際は、必ず細かく手を入れておりました。そうしなければ本にまとめたくないと、日頃、私にも言っていたからです。〉と言う武田花の言葉をこそ自分は思い出すべきだろう。
何と言ったって、『富士日記』以来、武田百合子の文章は〈しぐさや言葉や光景のかけがえのない瞬間の美しいコレクション〉だったのであり、そのコレクションの上質さ、飼猫玉ちゃんや大岡昇平や、甘栗屋のおじさんの指を掴んで説明するおばさんのしぐさや声…〈雑々とした世界のなかで同等の貴重さをもって語られる〉それらがまさに、自らがいつも書きたいと思っている偶景そのものであるために、小説家としての金井美恵子に嫉妬さえ起こさせるほどの、豊かで美しく、貴重なものであるのだから。