2021年8月20日金曜日

金井美恵子作品雑感4 「犬の眼の人」に見る武田百合子の文章

確かに、賛辞として何かと武田百合子作品に冠される事の多いその言葉…〈天性の無垢〉や〈本来の芸術家〉や〈天衣無縫〉や〈天真爛漫〉や〈女性的な力〉と言った、戦後日本文学の三人の〈巨人〉たる〈文学者〉によって書かれた武田百合子に関する言葉について、金井美恵子は〈賛美であり感嘆であると同時に、どこかそれが自分たちの〈文学〉とは別の場所と異なる価値観と異なる見方で書かれたことに対する、怖れと、それ以上の安心とでもいったようなものが存在する〉と指摘していて、自分もそれはその通りだと思うし、それらが未知やはかり知れぬものへの驚きを含む賛美である事は確かなのだけれども、そう言った言葉には、自らと異なる場所に在るものを軽んじる際の隠れ蓑にもなると言うか、自らと並び得るもの=まともなものとして対峙していない印象を受けもするし、何より武田百合子はそのような言葉でのみ語られてよい作家では絶対ないはずだ、と思う。 
金井美恵子の言う武田百合子の〈銅像の楠正成という歴史的人物ではなく、それが乗っている「馬」が「静脈なんかまで浮き上らせて作ってある」ことにこのうえなく自然に感応しないではいられない感性〉と、同時に〈母は雑誌等に書いた随筆を本にする際は、必ず細かく手を入れておりました。そうしなければ本にまとめたくないと、日頃、私にも言っていたからです。〉と言う武田花の言葉をこそ自分は思い出すべきだろう。
 何と言ったって、『富士日記』以来、武田百合子の文章は〈しぐさや言葉や光景のかけがえのない瞬間の美しいコレクション〉だったのであり、そのコレクションの上質さ、飼猫玉ちゃんや大岡昇平や、甘栗屋のおじさんの指を掴んで説明するおばさんのしぐさや声…〈雑々とした世界のなかで同等の貴重さをもって語られる〉それらがまさに、自らがいつも書きたいと思っている偶景そのものであるために、小説家としての金井美恵子に嫉妬さえ起こさせるほどの、豊かで美しく、貴重なものであるのだから。