2021年8月20日金曜日

金井美恵子作品雑感3 金井美恵子による幸田文評「父の娘」に見る幸田文と森茉莉の文章

そもそもまず「父の娘」と題されていながら、それは幸田文と森茉莉を「父の娘」として読むものではないのだ。何しろ彼女達の父親は彼女達の文章の中で、それぞれの文章の特徴と言うべき理由によって、互いに父親性を失う。森茉莉であれば、鷗外はその文章の〈幼年期の動物的に甘美なぬくもりの強烈な自己愛〉によって、〈アラン・ドゥーロンやピーター・オトゥールや、『黒猫』のジュリエットとあまり変わらない、文章上にしか存在しない空想的人物〉と化す事で、或いは幸田文であれば、露伴はその文章上で〈見事な躾けによってきたえられた端整な身ごなしや生活のあれこれの細部のゆるぎなさを競い認め合うライヴァル〉と化す事で、それぞれ父親性を失うのだと。そうであるとすれば、自分が彼女達の文章で読み、知る事となったかの父親達の姿は、既に彼女達の文章の中で父親性を失うどころか実在した人物としての存在感をも希薄化され、彼女達の文章の魅力やよさを形作り表現するものの一つとしてのそれであり、彼女達が「父の娘」としてのみ読まれるべき作家ではない事を、それこそその文章上の存在感(彼女達の言葉によって、その文章内に最も適した形に作り上げられた、現実の彼等とは異なる、文章上の存在感)によって、何よりも証明するものではなかったか。要するに自分は、ただ彼女達の文章を愛する事の一部としてかの父親達を読んでいたのであり、彼女達の文章の中にいるのではない、現実の森鷗外や幸田露伴について、何も知ってはいないのだし、知ろうとも思っていなかったのだ。
〈細ごまとした生活の細部がきちんとたたえられているべき〉〈露伴的端整さ〉が〈様々な局面のなかで崩れ病む場に直面しながら〉その〈教育された生活を守りとおすことの、軋みの清々しさ〉を読む事が幸田文の文章、とも金井美恵子は言っていて、そう、そうだった、『父・こんなこと』さえ清々しいのだ幸田文は、と幸福に思い出す。〈実地に納得〉されたものだけを書き、〈数多くの手や体や頭や足の実践が伝わってくる〉あの文章…〈実地に納得〉し得ない時の自らへの厳しさと言うか頑なさみたいなものごと思い出されて、それら含めて好ましく思えるし、何より幸田文の文章をまた読みたくなる。