2021年8月8日日曜日

山尾悠子『角砂糖の日』

沈黙と沈黙の間、硬質の空白と空白の間に突如として酷く密度の高い、一つの世界とでも言えそうな画が現れて慄く。一瞬にして現れて、鮮やかと化して慄く。強く、或いは柔らかに始まり、すぐに沈黙してしまう、途端に静寂へと帰り、けれど現れる一瞬の、眼前に現れる画の、本当に鮮やかである事。その内に含むもの、凝縮されているもの、想起し連想せずにはいられないものの膨大さごと、握りしめて眠りに付きたいと思う。握りしめて目を瞑りさえすればあとは生きて行けるような。美しい本、あまりにも美しい本。本それ自体がまるで夢であるかのよう。 

 白白とした硬質な沈黙である空白に、突如として酷く濃密な、数多を含み、既に出来上がっている、既に完成されていると言うべきような世界が現れて、しかも自らの滅びや終わりをもその内に含む完璧さで、後にはまた白白とした沈黙があるだけで…それはまるで、と言うかまさにそれは、山尾悠子の小説ではないか、と思う。山尾悠子の世界はいつも完成されている、いつも既に出来上がっていると言った完璧さなのだ。ここにおいてはその濃密さと完璧さが、突如として現れて慄く。数多現れて慄く。 山尾悠子を読む事は、慄きとめまい、陶然として、自らの目撃したそれがまったくすべてなどではない事に、幸福に打ちのめされて、黙する、と言う事。