白白とした硬質な沈黙である空白に、突如として酷く濃密な、数多を含み、既に出来上がっている、既に完成されていると言うべきような世界が現れて、しかも自らの滅びや終わりをもその内に含む完璧さで、後にはまた白白とした沈黙があるだけで…それはまるで、と言うかまさにそれは、山尾悠子の小説ではないか、と思う。山尾悠子の世界はいつも完成されている、いつも既に出来上がっていると言った完璧さなのだ。ここにおいてはその濃密さと完璧さが、突如として現れて慄く。数多現れて慄く。 山尾悠子を読む事は、慄きとめまい、陶然として、自らの目撃したそれがまったくすべてなどではない事に、幸福に打ちのめされて、黙する、と言う事。