2021年10月15日金曜日

金井美恵子『「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ』感想

何によって涙はあふれるのか。〈バラ色の光芒を浴び泡立ち弾ける乱舞の回転する肉体とレースの渦のなかに〉〈めくるめく急速度で回転しながら、晴れやかな微笑と胸のうずく痛みと共に、はっきりと見えてくる〉記憶に圧倒されること、自らとその体験との間には数十年間と言う時間があって、けれどそうではなくて、そう言った個人的な時間に対する感慨が重要なのではなくて、〈ただ、ジャン・ルノワールの映画を見るという体験が、最も重要なのであり、だから、涙はあふれる〉のだと書く、金井美恵子と言う作家のモラルが、自分はいつだって好きだ、と思う。そのモラルと言うものを色濃く感じる一冊。その実践によって書かれているのだと言う事。何に魅惑され、何を書くか。最たる映画、あの光のたばの中から生れる世界と、或いは石井桃子。〈「歌」を思い出すために、記憶の迷宮のような旅路を彷徨することと、冷蔵庫の上にメモ用紙と鉛筆をおいて、鼻歌をうたいながら台所仕事をすることの、どちらが私の好みかと言えば、むろん後者〉であることを、読者は体験済みの事実として既に知っているし、むろんの事として納得する。或いは長井真理「〈悲劇〉の生成としての境界例」を通してある種の小説のつまらなさを紐解きながら、小説を読む愉しみ、〈一つ一つの事件というのが、不幸なら不幸ということだけを意味するわけではなくて〉〈もっと出来事の持つ多様性とか、横道にそれていく言葉自身の持っている力とか、それによって膨らんでいる、そういったものの総体みたいなものをどう読むかということが小説を読むこと〉であり、小説を読むことで読者の経験するものが、〈絶えざる現在というもの〉である事を証明して行く、その快楽と言うべきスリリングさ…。そして指へ。『噂の娘』のラストにおいて、ためらい、痙攣する〈私〉の指と、ひとまず書き終え、けれどまだ書かれていない事に苛立つ作者の指。おわりを示し、けれどおわらないこと、新たにはじまり続ける事こそを示しもする、その指へと至り、読者もまたひとまず読み終える。 

 自分は今、作家としての金井美恵子のモラル、読むことと書くことの実践と言うか、何を書くのか、と言う事、何に魅惑され、何に欲望し、如何に書くのか、或いは単純に何に対して「ケッ」となり、「フン」となるのか、と言う事に最も興味があるのだと思う。あとはその実践の内における指や手というもの。そしてその実践を映画と共に形づくる最たるものとしての、石井桃子。