2021年10月15日金曜日

金井美恵子『軽いめまい』雑感1 思い知らされると言う体験に感動すること

夏実の放心やめまい、〈水道の蛇口をひねって〉〈光線の具合ではキラキラと輝きながらうねる透明な紐の束のように〉流れ落ちる水を、〈何の不思議もなく水が流れおちる〉のをただ眺めて放心すること、或いは遠景のまぶしさと目蓋の裏に焼きついたオレンジ色の後、妙に生々しく映る近景の更に細部の落ちた髪の毛であるとか、そこに映る人たちが、母親を除き〈もう誰もここに今生きてはいないのだと〉写真を見て考えるときの、感傷とは無関係の不思議な気持ちやら、写真との距離の量り方、〈白地に赤い小さな水玉の袖無しのワンピース〉の記憶を手がかりにすること、また或いは様々な疲れや苛立ちや笑い、気怠さや体調不良や面倒事や億劫さや悪くなさ、ことのほか沢山ある〈「やりたくないけれどやらないわけにはいかないこと」〉、たちどころにそらで暗記できてしまうスーパーの売り場と、メモし考える買うべきものやメニューの代わり映えのしなさ、不満とは別の、自らの今に対して抱く実感の種類、自らの事なのに、他人事のように口に出かかる夏実の〈なるほどねえ〉と言う言葉、などを目の当たりにする度、既視感と言うか、それこそめまいのように、自分はそれを、今、生きるようにして読んだその多くを、知っている、と実感する。夏実は私かもしれないと、これは私の言葉でもあるのだと、確信してしまいたくなるし、そうすることで、自分はいつも、自分の今と、今生きているここと言う場所を、思い知る。それらが一体どういう類いのものであるのかを、思い知る。自分もまたそのようにして生きて暮して、生きて行くのだろうと言うこと。疲れや苛立ちや倦怠や充足や停滞の繰り返しを繰り返しながら、軽いめまいと放心を、しばしば体験し続け。 

『軽いめまい』は金井美恵子の一番ではないけれど、自分にとっては欠かせない一冊だ。あとがきとこの小説を書いた理由としての「軽いめまいと日常生活」を含め、感動してしまう。これは自分のものであると、思わず確信してしまうような言葉に出会うこと、共感を超えて、共に在りたいと思うような。そう言った、唯一と言っていいほどに、自らの連帯すべき言葉に出会う喜びが、自分にとっては一番ある小説なのだ。 自分は、自分の生や今や、今生きている世界を肯定されて感動する訳ではなく、自分が生きている今や、この世界を、それがどういうものであるのか、自分がどのようにして生きているのか、を読む事で思い知らされると言う、その体験に感動するのだ。自分の生きている今とここでしかないような世界そのものを目の当たりにして、自分もまたそのようにして生きているのだと言う事を思い知らされて、良し悪しや感傷ではなく、ただ思い知らされると言うその体験にこそ、自分は感動する。