2021年10月15日金曜日

金井美恵子作品雑感6 境目を超えて結び付いてしまうもの

〈岡本かの子の『女體開顕』の幼い女主人公は、薄あおいラムネのガラスびんの分厚いガラス越しに、外の世界をうっとりと眺めるのだが、三十年近くの時を経て、森茉莉はコカコーラの薄あおいガラスびんの色に、地中海の色を発見する。〉…「甘美な鈍重」と言う文章の中で、金井美恵子の言葉によって、〈ラムネびん〉と〈コーラのびん〉の〈不可思議な透明さについての色彩感覚〉を通して、岡本かの子と森茉莉が結び付く事、それを共通項として両者が立ち上り、結び付き得る事を発見する喜び。
 『カストロの尻』においても、森茉莉は発見される。誰も興味を持たず、一切触れる事のなかった〈四つか五つの、小さな膀胱に尿を溜めて苦しんでいる女の子〉…。そのような事ばかりで出来ている。まるで溜まり続ける埃、塵芥のように。容易く見過ごされ、語られる事なく。平然と無視され続ける広がり。けれども発見され、結び付いてしまった。金井美恵子の言葉によって。そのエクリチュールの中でのみ。結び付いてしまう。無関係に存在していた本と本、或いは記憶。森茉莉と、誰も目もくれない女の子。金井美恵子を読むと言う事は、そう言った僥倖とでも言いたい瞬間を目の当たりにし続ける事でもあるな、と思う。 
例えば岡本かの子と森茉莉や、誰も気にもしない女の子の膀胱と森茉莉、或いは武田百合子と東海林さだお(口唇、と言う言葉を通して)、〈言葉の持つ力〉と〈水蜜桃〉、或いは『流刑地の猫』(「八丈島の猫」と山田風太郎)等、金井美恵子の文章の中でのみ、幸福に結び付いてしまうもの達の事を考えてみる。 その横断性について。実在しているものと、想像上のもの、非実在のもの。他者のもの、自らのもの、他の誰かのもの。記憶や映画や小説やエッセイやそれ以外の書かれた文章や、境目を超えて、互いに容易く横断して、幸福に結び付いてしまうこと。そのクレイジーキルト性について。 
『柔らかい土をふんで、』にて若い娘の読んでいたあの本、木版画の表紙、〈ルビーの眼がはめ込まれた蛇の形の指輪〉〈三重にとぐろを巻いて小さなルビーの眼の入った頭をもたげている蛇をかたどった指輪〉を思い出す。〈記憶と言葉によるコラージュ〉、その横断による幸福な結び付きを象徴する魅惑として。〈いわば欲望としてそうなったとしかいいようがない〉と言う言葉ごと、思い出す。欲望し続けること、書くことに対する作者の欲望によって、その文章の中で結び付き、繊維的に絡まり合い、強靭な魅惑となるもの達。空間を超え、時間を超え、形式を超え、実在と非実在の境目さえ横断し。作者の記憶と欲望を介して結び付くと言う幸福。