2020年8月6日木曜日

金井美恵子に関するツイート幾つか

やはり自分は、金井美恵子を読んでいる時、その楽しさ、不快さや苦しみや手強さ、憂鬱をも含む、その快楽と向き合う時、読んでいた時分の感覚、如何に彷徨い、如何に体感し、生きていたか、読む事で生き直した光景や空間や時間の事などを考え、思い出している時が、唯一無二の幸福であると感じる。

ちなみに自分が金井美恵子さまから頂いた返信のお葉書は、熊谷守一のポストカードなのであった。未だにそのお葉書と言うか、金井美恵子さまより頂戴した(しかもそこには自分の名前が書かれているのだ!)お言葉を見るだけで、ふにゃふにゃと嬉しくなってしまう…。

ハードカバーも文庫も、詩集も全短篇も、エッセイ・コレクションも講談社文芸文庫も、金井美恵子の本はすべて欲しいし、手に入れたいのだ。

自分は自分が認識している以上に、この至福を、この至福の時間を覚えている。金井美恵子と言う至福を、金井美恵子を読むと言う至福の時間を。まざまざと思い知る。

自分が如何に、幸福であったか。金井美恵子作品を読んで。如何に好きで、必要であるか。初めて『柔らかい土をふんで、』を読んで以後、自分の読みたい本、面白いと感じる本が、どう変わったか。如何に変わってしまった事か。如何に堪らなくて、快くて、手強くて、最高であるか。如何に叫び出したいか。自分にとって、金井美恵子作品を語る事が、そのまま、読む事を語る事である事。如何に気恥ずかしくて、苦痛で、楽しくて、嬉しいか。

本当にもう、金井美恵子の本を語る事は、自分にとっての読書、読む事そのものを語る事であり、自分が生きていると言う事を語る事でもあるな、とつくづく思う。

「砂の粒」はもう、自らの記憶と化している。誰の記憶か、見聞きした事か、読んだものであるのか、最早区別もなく、自らの内に、確かにあり、けれど忘れている、他の無数の光景や瞬間や感覚とともに、埋もれている。溶け込んでいる。読む事で、思い出す事で、幾度となく生きて、生き直した記憶として。

手芸の楽しさと金井美恵子を読む楽しさは、自分にとって一続き、確かに繋がっているものだ。服作りや編み物を続けて行く事によって、金井美恵子を読む楽しさもまた更に強まって行く。金井美恵子の言葉によって引出されるものが増えて行く。

色も素材も着心地も質感も確かにそこにあって立ち上ってくる、金井美恵子の服装と化粧と髪型の描写が好きだ。触れる、脱ぎ着する、見る、施す、ほどく、まとめる瞬間をも当然含む。

金井美恵子を読むと、読み終えた時、もう金井美恵子しか読みたくないと言う、僅かに鬱陶しくて、憂鬱で、とても幸せな気持ちになる。

〈そこに夢見るものなんか、何もないけれど、薄い水色とごく薄い灰色と白の濁った空に輝いているバラ色の雲は、それが夜明であれ夕方であれ、短い束の間の時間、幸福感で充たされる美しさで、私を呆然とさせてしまうのだ。〉…既視感に満ちた、繰り返しと言うか、それが反復である事さえ、平素考える事もなく繰り返しを繰り返して生きている訳なのだけれども、時折ふと思い出す、至福の文章。思い出す度、それが快さと共に立ち上って来る度、やはり自分には金井美恵子を読むために生きているみたいな所が確かにあるな、と思う。

明日からも自分は金井美恵子を読むと言う気持ち。