2020年10月2日金曜日

森茉莉『魔利のひとりごと』

失ったもの。失くしてしまったもの。今はもう、所有していないもの。今はもう、現実にはなく、存在しておらず、自在で、豊かで、色鮮やかなその夢想の、その記憶の内にのみ、あるものの事。その内にのみ、存在し得るものの事。未だ色濃く、幸福として、美しさとして、或いは恐さとして、悲しみとして、残り続けているもの達の事。綺麗で、温かで、軽やかで、柔らかで…淡く、濃く、甘く、妖しく、不穏さを含み、深遠さを含み、不可思議な…。香りであるとか、色、気配や雰囲気、手触りや味や、艶、明暗や陰影、煌めきと言った。自らの愛するそれら、愛してやまぬ、それらの事。 
或いは怒り。不快さ、不愉快さに属する事どもについて。現実に対する。自らの愛する美の、本物のない、今、現実に対する。許せなさ、憤りや不満、失望について。如何に乏しく、醜悪であるか。贋物、紛い物の多い事。そのつまらなさ、魅力のなさについてさえも。美や幸福や魅惑を語る際と同等(時にはそれ以上)の、強度と繊細さを以って。森茉莉は語る。魔利として、なにもかもを蠱惑的なほんものにしてしまう、かの言葉の、魔性を以って。快不快、いずれをも際限なく。語っても語っても、尽きる事などないかのように。語る事で、言葉にする事で、ますます強固なものとして行くかのように。
「沐浴」の忘れ難い事。立ち上る情景の明るさと不穏さ…重く、厚く、温かな湯の誘惑、舶来の石鹸の香り、優しく、柔らかな喜びに身を委ねる幸福と、心細さや不安や痛みの、そのすべてが溶け合う。輝かしいまでに、甘美な。とても濃い一冊。狭く、密やかで、それ故に濃い。自らのものを語るが故の、近しく、親密で、自らだけのものである事を語るが故の、濃さ。