2021年2月17日水曜日

金井美恵子に関するツイート幾つか 2

金井美恵子の本はその作りも含めてすべてが素晴らしく、魅惑そのものであると思っているが、中でも平凡社のものが特に豊かで楽しく、幸福めいていて、自分は好き。金井美恵子エッセイ・コレクション、『たのしい暮しの断片』、『楽しみと日々』、『待つこと、忘れること?』、『切りぬき美術館 スクラップ・ギャラリー』…そして来月発売の新刊もきっと、確実にそうであると予感する。 

 金井美恵子の言葉の繊細さ、豊かさと膨らみ、立ち上って来る事、思い知らせる事、必要である事。 ちくま9月号〜12月号分の金井美恵子の連載〈重箱のすみから〉を読む。何となくもやもや、ぼやぼやと生きてしまっていた時間を補完するように。金井美恵子の言葉を以って、ようやく埋まる、と言った感じ。ようやく明らかになる、と言った感じ。違和感や納得のいかなさ、掴みあぐねていた諸々の姿形…。 
そして笑いもする。そして当然、うんざりもするのであって、諸々腑に落ちて、少しすっきりとして、けれど金井美恵子の言葉によって、そのおかしさやズレや愚かしさみたいなものを改めて感じた物事に対して、よりうんざりと言うか、ますます陰鬱な気持ちになったりもする。 

 未読の金井美恵子作品があるとたまらなく嬉しいし、既読の金井美恵子作品を読めば思い出す事の快楽と言うか、記憶を引き出されて行く事の快楽と言うものでたまらない気持ちになるし、いずれにせよ至福。 
繰り返しと既視感と、確信と疑念。果てしなく、無数にあると言う事。迷宮めいたその広がり、魅惑と快楽に満ちた、その作品、未知のそれらが未だ存在するのだと言う喜びと、繰り返し、繰り返し、幾度となくその内部へと彷徨い込む事の喜び…。 

 文學界掲載の金井美恵子の短篇を読んで、やはり金井美恵子を読む事は、生き直す事だ、と思う。その感覚や情景や物、当然として、うんざりする程に、或いはなんの感慨を抱く余地もない程に、よく馴染み、見知ったものとして、存在していた、用い、使い、消費していた、様々の事どもに触れ、生き直す。 その言葉によって、鮮やかに立ち上るすべて。体感する事で、生き直す。自らの内にある記憶や心当たりごと、その言葉によって、鮮やかに立ち上るその感覚や情景(や数多の消費物たち)によって、呼び起こされ、引き出されて行くそれらごと、今一度生き直す。読む事で生き直している、と思う。

 『楽しみと日々』の「おやつの時間」を読めばアップル・パイを食べたくなるし、アップル・パイを見れば金井美恵子の文章を思い出す。幸福な連想。 

 天然生活最新号の金井美恵子の連載、とてもとてもよかった。なじみの猫ちゃんの事、トラーちゃんの事。金井美恵子が語り、物語る魅惑の内、最強はやはり猫なのではないかと思う。猫を語り、トラーちゃんを語る金井美恵子の言葉ほど、豊かで幸福なものはない。 

 金井美恵子の言葉によって満たされる事の多さ。あの多幸感。金井美恵子が親密に語り、物語るもの、ことの、魅惑の、柔らかさや繊細さ、豊かさによってのみ、感じ得る。あの喜びであるとかめまい、幸福…。 笙野頼子や金井美恵子を読んで以降、多くの本が読めなくなり、多くの本が読みたくない本へと変貌してしまったが、笙野頼子や金井美恵子は呪いをかけたのではなく、呪いを解いたのである。