2021年3月12日金曜日

武田百合子『遊覧日記』

いつ読んでも、何度読んでもいい。とてもとてもいい。自分もこのように遊びたいと思う。ゆったりと、大いに、目一杯遊びたい。目であり耳であり、鼻であり口であり、好悪や快不快を繊細に感じ取る、身体そのものであるような言葉。雑多な声や匂い、明るさと陰影、気配や仕草や感じ、身振り手振りに、表情。昼も、夜も、日陰も、日向も。季節も、自然も、建物も。そこにあるすべて。静かに、けれど色濃く、鮮やかに立ち上って来るそのすべてを、自らもまた生きるようにして楽しむ幸せ。ただ緩やかに楽しむ事が出来る幸せ。 
一瞬を見る。ながいながい一瞬を、ひとときを見る。恐らくそれは、忙しなく、耐えず過ぎ行く事を免れ得ぬ現実の時間の、外にある光景。狭く、不自由で、多くの制約に左右される現実の時間の、外でのみ出会える光景。それは夢の時間、夢に属する時間。外へ出てやっと、見る事が出来、感じる事が出来る楽しさ。一瞬の、一日の、何ともながく、色濃い事。またそのすべてを鮮やかに立ち上らせる言葉の、豊かさと面白さ、この上のない事。 
楽しくて、心地よくて、自分はいつも、悲しくなってしまう。そこにある一瞬を、ひとときを、永遠のようなものであると見間違え、いつも見間違え、けれどやがて、それらにさえ終わりは訪れるのだと言う当然に気付き、悲しくなってしまう。

どこに紛れ込みたいか、どの時間、どの光景、どの言葉の一部になりたいかと言えば、自分はやはり武田百合子の書くそれなのではないかと思う。その一部になりたい。紛れ込んで、すっかり溶け込んで。関わりもせず、交わりもせず、好き好きに、思い思いに、ただ自らを生きているだけのものになりたい。存在するのであれば、武田百合子の書く言葉や空間の中に存在するものになりたいと思う。