2021年3月12日金曜日

笙野頼子『猫沼』

家族であり、盟友であり、伴侶であり、救いであり、根拠であり、幸福である、猫たち、その猫民たち。領土であり、国家であり、故郷であり、約束の地であるそこ。笙野頼子の今に、笙野頼子が今を書いている事、書き続けている事に、自分は感謝する。とてもとても嬉しいと思う。幸福と、悲しみと、自らの生き死にそのものであるような、猫達との事。共に生きる事が大前提の、分かち難く、互いの生命同士が絡まり合ってしまったかのように分かち難く深く結び付いた、己が猫民、猫様達との。建国から、自らの国家であり、領土であるそこを守り、外に抗い、その中で生きて、書いて、見送り続けた事。失い、けれど乗り越えて来た事。或いは地獄。猫のいないそこ。無であり、空洞であった事…。 
笙野頼子作品の多くに、かの猫達はいる。『猫沼』を読めばどうしたって、その多くが立ち上って来る。盟友としての親密な結び付き、その多くが立ち上って来、甦る事で、自分は今一度思い知る。如何に両者が深く、親密に、この上なく親密に、あらゆる不可思議さをも必然に変えてしまう程の親密さを以って、結び付き、絡まり合い、一つになっているものであるか。帰ってくる、戻ってくる、そう思う事の必然さと、再び出会う事の必然さをも。そして本当に、猫は帰る。帰ってくる、戻ってくるのだと言う事。生まれ変わり、けれどすべて、みんなその中に入っているのだと言う、詰まっているのだと言う。未知の文化、それまでとは違うやり方による妨害。抱っこ抱っこと、何と激しく、大変で、強烈で、甘美な…。その暇のなさ、喪失の苦しみが隠れて行くとさえ言う。 不透明で、ぼやけていて、不安は多く、未だ渦中である事は確か、けれど今は喜ばしさが勝る。願わくばこの先も、と切に思う。笙野頼子が書き続ける限り、自分は読み続ける。

ピジョンさまとのそれは、エゴとエゴのぶつかり合いとの事。しかしながらその両方のエゴが堅固なものである分だけ、激しく、愛情は多くを含み、強く、より分かち難いのではないかとも思う。むしろとうにそう言った領域(エゴとかエゴでないとか)を超えたものであるようにも思う。