2021年3月26日金曜日

石井桃子『山のトムさん ほか一篇』『石井桃子創作集 においのカゴ』

『山のトムさん ほか一篇』
会った事はないのだけれどもよく知っている(ようなつもりでいる)ネコがまた更にひとり。その気ままさ、自由さに可愛さに利口さに不都合さにやんちゃさ、いきいきと、大変にネコネコしく生きるトムさんの姿を目の当たりにして、すっかり親しんだような気持ちになってしまう。一緒に暮している、生活している、同居人、友だちであるトムさん。〈手に手をとって生きていく、人生(?)の道づれ〉であったトムさん。
 〈トムは、いつ出かけ、いつ帰ってきてもいいのです。〉甘えたり、遊んだり、冒険をしたり、おてつだいをしたり、おむかえをしてくれたり、ご出勤をしたり、迷子になったり、ついて来てしまったり…。まったくもっておかまいなしであり、お話はどうしたってトムさんが中心になってしまう。沢山の呼び名に逸話、歌まで出来てしまう。一冊の本にまでなってしまう。トシちゃんやおかあさんやおばさんやアキラさんたち山の家の人たちの、懸命に働いて、毎日を暮している姿と、そんな彼等のすぐ側で、寄り添ったり邪魔をしたり、のびやかに、実にネコネコしく生きているトムさんの自在さ。登場するすべての人(勿論トムさんを含む)たちに対する、石井桃子の細やかで親密なまなざし。何とも豊かで楽しい事。厳しさや過酷さをも当然含み、なおほがらかなその時間の、何とも貴重である事。
 〈あのしなやかで、しっとりと重いからだが、私のひざの上にあって、ながいながい、日本一りっぱなしっぽの先だけで、私の話にあいづちをうってくれているような気がしました。〉石井桃子のあとがきがまた素晴らしい…。立ち上る立ち上る、その親密な愛情、気配と感触の重くあたたかで柔らかな事。 

『石井桃子創作集 においのカゴ』
 読めば軽やかにふくらみ、音やにおい、楽しさやかなしみと言った、たくさんの色が出で、広がる。そんなふくらみと広がりを持つ言葉の慕わしさ。石井桃子のおはなしが伝えること…音やにおいや色、或いは感情や感覚の、豊かさであるとか膨大さ、それこそ沢山あって、手強く、繊細で、複雑であると言う事。またそれ故に楽しく、喜ばしく、けれど同時に悲しくもあり、決して簡単ではないのだと言う事。まちがっても正しさや、こうあるべき、などといった常識や当たり前ではない。何というか、特定の色に染めようとするものではなく、沢山の色がある事をこそ教えてくれるような、読む者の世界を広げるためのおはなし、と言った感じがする。 
やさしく、わかりやすく、的確で、想像や連想へと誘う余地があって。読む者や聞く者を決して甘く見ない。変に端折ったり、飾ったりと言うような、ごまかしをしない。ちゃんと向き合って、説明してくれる。結構容赦がないな、と思うほどに、ちゃんと。だからこそ石井桃子は信頼できる。読む楽しさを伝えるくれるおはなしの数々。