2021年4月10日土曜日

『夜想#山尾悠子』

かの膨大さ、あまりにも多くのものを含み、内包している事、言及される事のない場所にさえ確かに存在していると感じる事、その正しさと奥行き、読み尽くしてしまう事の不可能さを思い知る読書であった。〈これを読まずして、山尾悠子を語れない〉どころか、読んで一層、山尾悠子を語る事が困難になったように思える。読む度にいつも覚える、今自分が目にし触れたものは、完成された世界の、その膨大な内の、ほんの一部でしかないのだ、と言う感覚。その感覚が、決して間違いではなかった事を確信させられるような。かの世界、かの構造の、複雑さと美しさ、その洗練されている事の必然さをも思い知らされるような。愉悦の読書であった。
めくるめく煌めき。煌めきと言うほかのない読み解きとエピソードの数々。不意に出くわすが故にめまい。魅惑と言うほかのない数多の人名と作品、或いは彼等との交わりすれ違う記憶の数々。不意に出くわすには鮮烈過ぎてめまい。不意に触れるには蠱惑的過ぎて、快楽であり過ぎてめまい。例えば多田智満子が言ったと言う〈「…シュオッブみたいなところもあるし、アルトーみたいなところもある」〉なぞまさに。幸福な事にも所有している『黄金仮面の王 シュオブ短篇選集』月報をここにはさむ。山尾悠子の「シュオブに関する断片」をこの本にはさむ。
あとは本当にもう、何よりもう、とびきりの魅惑と快楽を語る際のあの金井美恵子の文章と、泉鏡花文学賞の二次会で〈歓談がはずみ久しぶりに煙草を手にとる金井美恵子さんに火をさしだす〉写真をわたくしめにお与え下さり誠にありがとうございますと言う気持ち…。夢のようであった。山尾悠子を語る金井美恵子の言葉を読める事、その交歓を目の当たりにする事、『飛ぶ孔雀』の解説から続く、ひと続きの幸福な夢のようであった。そしてまた矢川澄子との、〈鋭くひかるものと、一瞬だけ擦れ違った記憶〉を誠にありがとうございますと言う気持ち…。


谷崎由依の「箱のなか、箱の外」がとてもよかった。多田智満子の散文詩と共通するものを感じたとの由。〈山尾作品における幻想は、何よりもまず場の幻想であるということだ。〉…自分は土地の幻想、土地土地の幻想と思っていたけれど、そうか、場だ、と思う。土地はそのほんの一部でしかなかった。ほんの限定的な理解でしかなかった。


 追記の追記。笙野頼子の事。笙野頼子も場の幻想の人であるように思うので、山尾悠子が挙げていた事、驚きはしたけれど、妙に納得してしまう。細やかな喜びとして記憶する。