2021年7月3日土曜日

金井美恵子『小説論 読まれなくなった小説のために』を読んで確信する事

まるで答えそのものであるかのような、答えの塊であるかのような一冊。金井美恵子の小説が、自分にとって、何故これほどまでに魅力的で面白いのか。その答え、自分にとって、この上なく楽しく、唯一無二のものである事の。その当然さがわかると言うか、これを読んで更に納得する、更に確信する、と言った感。どう読んだか、読むこと、如何にして小説を読んで来たのかを語る金井美恵子の言葉を読む事によって。
読者としては、〈小説のなかで、それを読むことによってある一定の時間なり空間なりを生きるように読む〉ことを考えるし、或いは作者として、〈そういう時間を読者と共有できる言葉を持ちたいという願望で小説なりエッセイを書いています。〉と。ゆえに好きだし自分は金井美恵子を読むのです、と逐一言いたくなるし、実際言いながら読んでいたように思う。
〈とかくそうした重大な細部が読みすごされます。〉〈まして、小説を読む時、自分の性などを常にアイディンティファイする必要があるでしょうか。〉〈私は、自分が良い作者かどうかはとても判断しかねますが、多少は良い読者だと考えてもいいのじゃないかと思ってます。〉ああ、引用したい。ぜんぶ引用したい。どこもかしかも好きな理由すぎて困る。読み飛ばしていい箇所なんてない。何もかもが自分にとっての答えであり過ぎる。二つのインタビューも最高であり過ぎる。
読み間違えること、或いは作者という存在についてなど、「小説の方法」を〈私はそれをごく簡単に小説を読むという自覚だと考えています。〉と表現する辺りや、批評についての言葉は特に素晴らしくて、感動さえしてしまうし、金井美恵子が批評を書くことの当然さをも思い知る。〈読んだから書く〉という言葉の意味というかその必然性というか免れ難さみたいなものをも思い知る。そのように読んで来たのであれば、然もありなん、それは極めて自然な事であったのだ。
読むことを語り、けれど小説を語るより、やっぱり実作の小説を書きたいし、そっちの方がずっと自由で楽しいと言う金井美恵子の言葉を読んで、自分はまた読む方へと、金井美恵子を読む事の喜びへと向かわされる。〈細部の隅々まで味わう読書によって小説を読む。〉とかく細部、何よりも細部であるように思う。贅沢な読書、快楽的な読書。繊細に、事細かに読んで、楽しみたい。自分もそのようにして読んで行きたい。〈生真面目にほとんど快楽を締め出してしまうようなタイプの読者が読み落としてしまうものに小説は充ちているのではないでしょうか。〉自分も出来る事ならば、僅かでも注意深い読者と言うか、良き読者になりたいと思う。それこそ生きるようにして読んで。この上なく快楽的に。

〈その幾つものイメージというか、幾つもの記憶を、すべて読者にわかれと思っているわけじゃないんだけれども、ただ、無数の独見的な自分の記憶とか、持っているイメージというふうなものを組み合わせてというか、織りまざってしまうものなんですけれども、それを言葉に書くことが、すごく単純な言葉でいうと、何しろ好きで、それを書きたいから小説を書いているんだということに尽きちゃう感じなんです。〉…やはり自分にとって金井美恵子を語る事は、読む事の喜びそのものを語る事なのだ。