2021年8月20日金曜日

金井美恵子作品雑感2 『重箱のすみ』、「旅情の挫折」に見る金井美恵子のエッセイを読む事の楽しさ

なぜ金井美恵子のエッセイを読む事は楽しいのか、その楽しさについて考えてみると、それはやはり、金井美恵子のエッセイを読む事が、即ち、書き手である金井美恵子が、観たり書いたり読んだり、作ったり料理をしたりトラーちゃんと遊んだり、飲んだり食べたりおしゃべりをしたりしながら、楽しんだり喜んだり充足したり、憤ったり苛立ったりうんざりしたりしながら、暮らしている、まさしくその暮しの一部分である物や事や時間を、読む事で体験する事であるから、であるように思う。 
例えば『重箱のすみ』であれば、短いエッセイなのだけれどもやはり「旅情の挫折」と言う文章が、金井美恵子を読む事は即ち体験する事であるのだと言う事を鮮やかに証明していると言うか、本当に、楽しい体験そのもので、日々の暮しの細部とでも言うべきささやかな移動の時間を読む事でまさしく体験させ得る、豊かさと繊細さに満ちた文章として特に印象深い。 
はじまりは〈池袋で映画を見たり買い物をして〉〈「哲学堂経由中野行き」〉或いは〈「桜台経由練馬車庫行き」〉のバスに乗った時の、〈「このまま遠く迄行けるのに」という、みみっちい錯覚〉…〈桜台〉や〈練馬車庫迄〉行けば会える知人たちの事、〈目白駅前〉も、〈下落合三丁目、大判婦人用品の店サエキ前〉も越え、〈ピーコック・ストアも通りすぎて山手通りを越えてバスに乗りつづけることも出来るのだし〉〈練馬車庫行きのバスだったらそのまままっすぐ西落合の方へ行って〉、たいして面白くはないけれど、〈哲学堂公園を散歩することも出来る〉…意識は林芙美子記念館から成瀬巳喜男の映画へ、自らは動く必要なくただ運ばれて行く時間にぼんやりと思い出す事のとめどなさの中、バスの中に響く〈下落合三丁目、大判婦人洋品の店サエキ前〉のアナウンス、窓から見える〈サエキのならびの画材屋〉の光景に、つい降車ボタンを押してしまう事、〈バスは、大判婦人洋品の店のサエキの前というより、犬猫病院とミッチという高級ブティックの前にある下落合三丁目〉で停車する…降りればかの高級ブティックのウインドーに〈三十数万円〉の〈春物アンサンブル〉、いつも通り〈値段の高さと趣味の良さが一致していないところにホッとする、などと思いながら〉(この〈これ見よがしに奥様お嬢様風デザインのアンサンブルを買うくらいなら、西武デパートで、マックス・マーラかニナ・リッチのパンツとブラウスを買う〉との事)、トラーちゃんのために〈「焼きいりこ」〉を買い、〈画材屋の奥さんとお喋りでもしようと思って寄り込み〉、ひとしきりお喋りをして、お喋りの最中、〈今日も結局、バスで練馬迄行かなかった、と気がつき、まあいいか、と〉、そうなるとはじめから半ばわかっていたかのような平静さと何気なさで思い、家に帰る…と言う、体験をする。読む事で、まさに暮しのささやかな一部分とでも言うべき移動の時間そのものを、体験する。 
そう言った日常の細ごまとした移動の時間の、ある種の冗長さと言うか、意識だけが流れ続けていて、運ばれているが故に動く必要のない身体とは断絶された時間の長さみたいなものを、言葉のあの緻密さと鋭敏さをもって描写し続けるものだから、こちらは自らの持つその手の記憶や心当たりや、身に近すぎる共感をも引き出されつつ、まるで自らであるかのように、読む事で体験する事となるのだ。その何と近しく親密でささやかで、楽しい体験であること!