2021年8月20日金曜日

金井美恵子作品雑感 書く喜び、観る、或いは読む快楽を知るその手や指や目について

手や指や目、口唇と言った箇所、金井美恵子の文章において、何かに触れ、或いは何かを行い、直接的にまずその楽しさや喜びや快楽を感じる存在として、極めて直接的に魅惑されると言う体験を持つ身体の部位として、書かれもするし、描写されもする、それらについて考える。 
まずはじめに知るものとしての、或いは自らよりもその感覚を知っているものとしての?身体と言うもの。全体としてではなく、細かな、部位であるもの。自分のものでありながら、何かこう、自らの思う以上の事をも知る存在であるかのように。自らの感じた快楽の、大部分を引き受け動き出す存在であるかのように。 

 以下例えば… 〈五十歳をすぎた批評家が実質的な処女小説を書いた後で、小説を書くという「楽しみ」について「それを知らなかつたのは、損をしたといふ気がします」と書くことの、思いもよらない率直さ〉にこそ、金井美恵子は〈ちょっとした不意打ちにあったような軽い驚き〉を感じ、〈私たちは(私は)不意打ちのとまどいに、小説を書く自分の指を見つめる。〉と書く。…小説家が見つめるのはほかでもない指、小説を書く自らの指。〈なぜ、批評家は(あるいは私は)小説を書くなどということになってしまったのだろうか。〉批評家を、批評家が小説を書いてしまうと言う事態へと向かわせたもの、批評家に小説を書かせてしまった〈「それを知らなかつたのは、損をしたといふ気がします」という、いささか子供っぽい口調のなかに混じるなまめかしさとでもいうべきもの〉を目の当たりにした時、小説家は自らの指を見つめる。そして読者はその指によってこそ書かれた「外套と短剣」を読む事になりもするのだ。〈「短篇=書評」という見出し付きで、「蓮實重彦『オペラ・オペラシオネル』の書評」としても書かれた〉、魅惑的なその小説を。 
或いは「愛らしい無意味の極致」においては、金井美恵子は〈極く単純な目の喜びと感動〉について、〈実際に手にとって見る機会に恵まれた〉〈大名のお姫様の雛道具〉と言う、〈具体的な物〉の、如何に小さく精巧で丹念に作られているか、その愛着と魅惑を描写する事で語ってもいるのだった。〈とにかくそれは文句なく単純に小さな驚異と夢見心地を呼びおこす、具体的な物〉なのであり、そして〈それを持っていた姫君の物語よりも、小さな小さな夢のように薄く軽い雛道具の数々〉は、〈それを作った何人もの職人たちの器用な指〉と、その〈目の喜びと感動〉、〈小さな物を見て夢見心地に、ただうっとりと感嘆の声をあげた数々の眼によって〉こそ、〈ひっそりと静かに〉、〈何かとてつもない優雅で愛らしいおそるべき無意味の極致として存在〉し得るものなのだと。 

 とは言え、考えているだけで、今はただその言葉に、その手や指によって伝えられる身体の極く細かな部位の快楽や喜びと言ったものの甘美さに、魅惑されているだけなのだけれども。金井美恵子においてはやはり映画、その歴史の中で発見され続けて行った技法や、それを観る事、映し出された細部であり瞬間である具体性を目の当たりにする事による高ぶりや充足と言った官能的な体験をも含めた映画と、親密に、何よりも幸福に結び付いている類のものなのではないか、とは思う。