2017年12月18日月曜日

多和田葉子『尼僧とキューピッドの弓』

同意する訳でもなく、否定する訳でもなく、特定の誰かに肩入れする訳でもなく、差異を確かめつつ、距離を測りつつ、隔たりをなぞりつつ、尼僧一人一人と接し、一人一人名付け、混同せず、個々を観察し、捉える、「わたし」の語り口が好き。ニュートラルなのだけれども、それぞれを、尼僧達全員を、その不調和ごと愛するかのような。
不在の尼僧院長が第二部では「わたし」に。本の中にいる、自分自身の姿。自分であって、自分ではない自分の姿。尼僧達の噂話が作る、自分自身の姿。言葉は人を、閉じ込めてしまう。本の中に。小説の中に。物語の中に。本はそれこそ、どこまででも飛んで行く事が出来るのだけれでも。自分であって、自分ではない自分は、ずっと本の中。それが自分でない自分である事を証明するには、自ら語り始めるほかない。自ら言葉を以て、語り始めるほか。自らが「わたし」となるほか。艶っぽい噂がぐにゃぐにゃっと変貌。

言葉で出来た世界の危うさ(如何に危ういか、如何に不安定で、不確かなものであるか、言葉で出来ているが故に、やはり言葉一つで、如何様にも姿を変えてしまうものである事…)を思い知る時。何だかソワソワする。多和田葉子を読む時。自分はいつも、ソワソワする。けれど今回は不思議と、危うい世界のその繊細ささえ、ひどく愛おしいものに思える。



尼僧とキューピッドの弓 (講談社文庫)
多和田 葉子
講談社 (2013-07-12)
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