2023年7月2日日曜日

多田智満子『十五歳の桃源郷』

詩人を形作るもの、原風景、詩人の言葉を形作る原初の風景とでもいうべきもの。〈水稲が生育するにつれて、まばらな黄緑から密生したエメラルドグリーンに、そして蛙の大群をひそませた濃緑に色を変え、やがて穂を重く垂れながら黄ばんでいくのを私は見た。〉〈雨もよいの空になると、山々が異様に色濃くなり、ぐんと目近にせり出してくる。ざあっと風が吹くと稲葉がみどりのたてがみのようになびいて、水脈に似た風の足跡が残る。〉〈そう、そのころ、すべては新鮮で、めざましく、美しかった。〉…原初の風景であり、色彩であり、美しさ。まさしくそれは、失われていることによって、時間というものの流れの外に免れていることによって、桃源郷なのだ。川という水によって隔たれていて、そこへと至る橋は途中で切れていて、もう二度と辿り着くことの出来ない桃源郷。或いは一冊のマラルメ、〈マラルメのなかたには、後々まで私にひそかな影響を与えたかもしれない一種の感性の様式がある。それは《眼ー湖水(蒼空)ー鏡》という自意識の図式で…〉或いは謡曲、或いは胡瓜の舟。悠長尼の頃。 
多田智満子は自然の相というものにこそ、鋭敏に感応する。移ろい行くその驚異に対して、或いは音の色、或いは生と死のあわいというものの放つ光と陰りに対して、つねにみずみずしく感応する。〈船が進むにつれ、滝は次々とあらわれるけれど、互いに何のかかわりもないといった表情で、それぞれが自分の山上から青黒い海面へと、この北の果の国で、おそらく太古の昔から、しらじらと、たったひとりで落下しつづけているらしかった。〉何にも混ざることなく、〈太古の昔から、しらじらと、たったひとりで落下しつづけている〉水に、かの詩人の言葉は最も似ている、と思う。清澄な悠久の水。原初の水の美しさのままに、悠久に遊び、ふりつもっていく言葉。鏡を通して結ばれる『高丘親王航海記』と詩人のテオーリア。鏡像の戯れ。限りなく美しい本。この本自体が、何かこう幽玄の、非現実の相を帯びて、桃源郷めいている。現世のあらゆる制約を免れて、その外にあって、美しく、夢のように、存在している。

 「ユートピアとしての澁澤龍彦」…〈彼の精神は、猥雑で混沌とした現実の世界よりも、ユートピアのように、夢想的な組織者たちが造型した、輪郭明瞭な世界、完結し、閉じられた宇宙を語るのに適している。〉