多田智満子は自然の相というものにこそ、鋭敏に感応する。移ろい行くその驚異に対して、或いは音の色、或いは生と死のあわいというものの放つ光と陰りに対して、つねにみずみずしく感応する。〈船が進むにつれ、滝は次々とあらわれるけれど、互いに何のかかわりもないといった表情で、それぞれが自分の山上から青黒い海面へと、この北の果の国で、おそらく太古の昔から、しらじらと、たったひとりで落下しつづけているらしかった。〉何にも混ざることなく、〈太古の昔から、しらじらと、たったひとりで落下しつづけている〉水に、かの詩人の言葉は最も似ている、と思う。清澄な悠久の水。原初の水の美しさのままに、悠久に遊び、ふりつもっていく言葉。鏡を通して結ばれる『高丘親王航海記』と詩人のテオーリア。鏡像の戯れ。限りなく美しい本。この本自体が、何かこう幽玄の、非現実の相を帯びて、桃源郷めいている。現世のあらゆる制約を免れて、その外にあって、美しく、夢のように、存在している。
「ユートピアとしての澁澤龍彦」…〈彼の精神は、猥雑で混沌とした現実の世界よりも、ユートピアのように、夢想的な組織者たちが造型した、輪郭明瞭な世界、完結し、閉じられた宇宙を語るのに適している。〉