中公文庫版には本編の後に〈トラーの死とその喪失を綴った三篇〉が収録されていて、元気いっぱいの頃と晩年って、それはやや唐突なのではないかと思っていたのだけれども、「トラーの最後の晩餐、禁煙その他」の中で〈ホタテ貝殻形の小型のグラタン皿〉という言葉を目にした瞬間、その〈十八年間使っていた〉グラタン皿と、『迷い猫あずかってます』の本編中に登場する元気なトラーちゃんが使う〈貝殻型のグラタン皿〉の間に流れた時間として、或いは今現在との間に流れた時間として、金井美恵子のいくつもの小説やエッセイ、『噂の娘』や『ノミ、サーカスへゆく』や『目白雑録』や『待つこと、忘れること?』や『猫の一年』や『たのしい暮しの断片』が、それらを読んだ記憶が、それこそ奥底から溢れ出すように一気に甦ってきて、たまらずに泣いてしまう。そのまま中公文庫版のあとがきと解説でも泣いてしまう。時間が流れ続けていることの事実そのものとしての、いくつもの小説やエッセイによって、或いはそれを引き出されるようにして思い出すことによって、涙は不意に溢れるのだと思う。
〈…路地をはさんだ向こうの、昔ながらの下見板張り造りの二階家が裏手を見せて何軒か並ぶ屋根の上にも、猫が二匹並んで眠っているのだった。〉〈多少汚れた白地に赤トラ柄の猫とミケ柄の猫で、冬の早い午後のあたたかな日差しを浴び、からだをくっつけあうようにして、顔を半ば前肢の間に埋めた姿勢で、遠目にもお腹が呼吸につれて規則正しく微かに上下するのがわかる。〉武田花の写真を思い出す。これは武田花の写真で見た猫だ、と思う。
〈五・五キロの猫が、ボールペンのキャップに噛みついてガチガチ歯をたてるので、キャップは穴だらけですっかり変形してしまうし、凄い力が加わるので「エクリチュール」はなにかと滞る。〉作家の書く手のすぐ側に、猫や犬が、人間とは別の生き物がいる光景というものが、個人的には好きなのだ。