愛情の中の息苦しさ。息苦しさの中の愛情。感謝の中の嫌悪。嫌悪の中の感謝。逆方向の感情を同時に捉えたまま、人間は生きて行けるもの。深い悲しみの中にさえ、身勝手さというものは、罪なく入り込むもので、しかし、だからと言って、その悲しみが嘘になるとか、そう言ったことではなく、同量だけ胸の内に同居出来るのだと。災難の中にさえ、災難なりの平穏があり、不幸をずっと、不幸なまま過ごせるものではなく、予期せぬ悲しみが襲おうとも、暗がりにずっと、佇んでいられるものでもなく、家族への愛情に、自らの身勝手さに、重い諦めに、図々しい呑気さに、後押しされ、生きて行くのだと。それは当然のことで、違和感さえ平素抱くことは少ないが、言葉にすると途端、気恥ずかしいものにも、後ろ暗いものにもなり得る。そう言った機微、人生を滋味豊かなものへと彩るような、人生の面白さを象徴するようなものへの、照れが、後悔が、肯定が、何よりも、微笑ましく感じられた。
生活、或いは家族と言ったものへの素朴な愛情や愛着。呑気さ、気恥ずかしさ、鈍感さ、狡さ、惰性、諦め、温かさ、愛おしさ…すべて入り混じったようなその態度が、その姿勢が、ひどく馴染み深い、身近なものと思えるからこそ、笑ったり、安心したり、くるくると、心は動き回るのだろう。涙と共に愛娘を送り出した最後、物語の区切りのよさに、満足と笑顔が浮かぶ。
四国滞在時代は『てんやわんや』を自然と連想。記されている、戦争というものへの態度、戦後日本への思いは特に、その嫌悪も、衝撃も、熱意も、疲れも、違和感も、至極当然のもの、納得出来るもののように思え、獅子文六に対して抱いている好ましさ、近しさの根源の一つとして、印象深い。
気恥ずかしさやら、後ろ暗さやら、図々しさやら、吐露する様すべて含めて心憎いあとがきまで、しっかりと楽しむ。