2015年10月25日日曜日

武田泰淳『目まいのする散歩』

すぐ隣で、或いは目の前で、或いは遠くで、動くもの、佇むものを見つめ、自身は漂う。死に近い生を。生と死の交わる場所、明確な境目のない曖昧な時間を。生と死、そのどちらをも彼等の姿に、自分自身の内に感じつつ。じっとりと、薄暗いものが篭っている。薄れる事もなく、流れ行く事もなく、篭り続けている。鬱々と、悲しげに。不気味に、緩やかに、穏やかに。掴み得ぬ鷹揚さをたたえた微笑みに、暗さを見る。茫洋とした、それ故に拭いきれぬ暗さを。
しかし、それでも自分は、どうしても、そこに浮かぶ愛おしい輝きの方を掬い上げてしまう。なによりもその慕わしさを、その堪らなさを。結局自分はこの夫妻が好きなのだと思い知る。どうしたって、二人そのものの魅力を一番に感じてしまう。当然感。共にある事の。(泰淳は病身ではあるものの)それは病のような特別な事を理由や契機とするものではない自然さ。二人の自然さ、一緒である事の普通さが堪らない。共有する時間の当然感が。『富士日記』、『犬が星見た』、『目まいのする散歩』…慕わしくて、何度となく二人の、彼等のいるその時間を漂う。繰り返し繰り返し、自分は多分、一生読み続けるのではないか。

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〈女房は、まるっきり寺住みの生活には無知であった。しかし彼女はすぐさま環境に馴れて、それを克服したばかりか、突破しそうになった。〉次いで語られるエピソードのパンチの効き具合よ…素晴らしい。何という素敵さ。百合子さんは天才か。やはり二人そのものの魅力がなににも勝ってしまう。…しかしあまりにも好き過ぎて、自分は何だか不純な読み方をしてしまっているような。所謂その、キャラ読み的な読み方をしてしまっているような…。



目まいのする散歩 (中公文庫)
武田 泰淳
中央公論新社
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