2021年10月30日土曜日

金井美恵子『小春日和 インディアン・サマー』を読むこと

何度読んでも楽しくて、嬉しくなってしまう。桃花コンビと一緒に遊び回ったり、おばさんとおしゃべりをしたり、意味もなく笑って、〈淡いコハク色の泡立つシャンパンのグラスを、ろうそくの炎にかざして眺めながら、こうやって、シャンパンを飲みながらなんとなく、ぼんやり一生がおくれたらなあ〉などと考えみたり、〈グウグウ、グウグウ、十六時間も〉眠れてしまう、〈自己充足的にうとうと〉するばかりの日々を送ってみたりと、『小春日和 インディアン・サマー』を読むことは、本当に楽しいことなのだ。
けれど当然、それはただ楽しいだけではなくて、〈あんたの恥はあたしの恥的家族構造〉の厄介さ、子どもに対する他者性をまったく獲得していない母親に苛立ちうんざりとする感覚や、父親とのずれと言うか絶望的な気の合わなさのようなものにまつわる記憶を共感とともに呼び覚まされてげんなりとしたり、何もかもが億劫で鬱々と〈世界と自分との間に一枚薄い皮膜が張りめぐらされているような〉〈物や人間の存在感が希薄になるというか、外界との関係が一種ブカブカしたものになって〉いる感覚を生き直して憂鬱に沈み込んだり、或いは〈五階の南向きの窓辺で寝そべって〉窓いっぱいにひろがる〈鰯雲の浮んだ晴れあがった秋空〉に〈なんとも気持良くうとうとして、頭がからっぽ〉になって〈別に、何もいい事なんかないのに、自然と口もとに笑いがこみあげて来て、あーあ、と大きく伸びをして、床の上でからだをゴロゴロと回転させたりする〉怠惰な充足を思い出して笑ったり、桃花が自転車で走った〈遅咲きのツル薔薇とクチナシとオシロイ花の匂いが人気のない通りに充満〉する〈気持の良く湿った夜〉と二人の笑いを体験すること、映画の趣味(エリック・ロメールの試写状や二人が見に行く『旅愁』や花子が『ミツバチのささやき』よりも『ラ・パロマ』の方が好きだと言って黒沢清のインタヴューを持ち出す辺りとか映画『ロリータ』に対する印象〈キューブリックの感じじゃないんだよね〉、などなど)細々とした物事の好みや価値判断で、桃子だけでなく花子までもが金井美恵子曰く〈私の血を幾分かは受けついでいる〉ことを実感することで、更には〈おばさん〉が原稿を伊東屋で買っていることや、フラ・アンジェリコの絵の絵はがきを送ってくること、〈イキソソー〉しているときの原因であるとかの細部、間に挿入されているそのエッセイと短篇はもちろん、読むことで、これまでの金井美恵子作品の読書体験の多くが蘇って来て、思い出すことの快楽、記憶の歓びと言うべきようなもので満たされる、と言ったすべてを含め、『小春日和 インディアンサマー』を読むことは、大変官能的な体験でもあるのだ。歓びや気持の良さや笑いなどと言った快だけでなく、不快さ、嫌悪や気怠さや疲れやうっとうしさや憂鬱や不安をも含み、大変に楽しく、大変に官能的な体験であるのだ。

金井美恵子、と言うか、桃子の〈おばさん〉は、ロラン・バルトの〈モード雑誌の引用の言葉〉から密やかな〈バルトの好みや声や息づかい〉を聞き取る。〈バルトは、まるで布地に触りながら、それを歓ばし気で繊細な、しかしバルト的な大胆さで裁断し縫いあわせているかのように、見えてしまうのだ。〉…なぜバルトの『明るい部屋』が好きなのかと言えば、〈それがどこかで読んだ本のような気がするからで、それをどこで読んだかというと、かつて私自身の書いた本のなかでだった〉と明かし、自らの「窓」とバルトの文章を並べて引用してみせもする、この「テクストと布地(テクスチュアー)」が最も自己批評的な文章、確かに作品の一部でありながら、この作品(だけではないけれど)の自己批評を最も兼ねた文章であるような気がしていて、かつ、『小春日和 インディアン・サマー』の、選ばれて積み重ねあわされて行く細部の手触りや感触や実感の官能(憂鬱や既視感や不安や物悲しさを含む)と言うべき部分の多くを引き受けるかのような(その官能の在り処と言うか、それらがどういった類のものであるのかを示すような?)文章だと思う。