2021年10月25日月曜日

金井美恵子『愉しみはTVの彼方に IMITATION OF CINEMA』

映画へのオマージュ、金井美恵子が映画にこそ捧ぐ言葉の。〈風も匂いも光のゆらめきも、未熟な桃のように微かに赤みのさした頬の輪郭を透明な銀色で縁取っているうぶ毛も、緑の光線も、夜の黒さも…〉〈テレビの小さな画面に映し出されてしまうことで失われてしまう多くのもの〉〈テレビ画面の彼方に、スクリーンの上にしか存在しない〉それら、〈私たちの恋人の最も麗しい魅惑〉と言うべきそのすべてについて。快楽や官能や、溢れんばかりに豊かな色彩や光線や光と対の影に重要な灰色、肌や手や眼や唇や存在そのものであるかのような肉体と映画そのものであるかのような表情、或いは幾つものめまい、速度や広がりや奥行きや動き、限りなく近づくこと、フィルムに定着すること、定着したいと欲すること、モラルや欲望や幸福と言った、無数の…。例えば俳優の〈じっと座っていた大きな猫が、いきなり柔らかい動きなのだけれども痛烈な前肢で、エモノに一撃を加えるような、およそ、ケダモノ的な慎重さと敏捷さが筋力の本能となっているような動き〉や、〈映画そのもの〉でさえあるような顔…〈悲劇の深刻さではなく不運の滑稽さとでもいったもの〉に縁取られた〈「不運の顔」〉、〈映画にしか可能ではない、世界の猥雑さと純粋さの混りあう瞬間の持つ力強い感動〉や映画の〈旋回する空間と輪舞する時間がひきおこす頽唐的なめまい〉、或いは〈マニキュアの分量〉〈スクリーンの中でしめる割合はほんのわずかな、十個の小さな紡錘形の鈍い光だが、手の中でしめる割合があまりにも異様な〉その分量であるとか、光線、〈僥倖によってしか撮ることの出来ない〉〈風を含んだ緑のなかであるいは都市のなかでの光線、ルノワールはいつでもとらえることが可能だったあの光線〉、そして色彩、何よりも〈光と影がそれぞれの肌の上に美しい白と黒と灰色のきらめきとかげりを注ぎ浮かびあがらせた肉体に〉こそ捧げられ、〈豊潤な歓びのように、それこそおしみなく浴びせかけ〉た色彩、その無二の鮮やかさと幸福について。まるで愛するかのように、むしろまるで愛そのものであるかのように、充足して艶めき潤う言葉をもって、金井美恵子は語り、語り直し続ける。 
〈一つ一つのシーンを細かく描写して書きつづけていたい、という欲望を文章を書く者に抱かせるようなところがある。〉〈そもそも最初から素晴らしい映画でなければ、それを改めて言葉で語り直すという奇妙な欲望を観客は持ったりしません。〉…その欲望を、金井美恵子の読者はよく知っている、と思う。体験として、語られた魅惑として、身をもって知っている、と思う。金井美恵子はまるでそうせずにはいられないとばかりに楽しげに、甘やかに映画を語り直す。映画という体験の実践?魅惑された眼の、耳の、肌の、身体の、その実践として、その魅惑されたことの実践として、小説は書かれたのだろうか。欲望の実践?語り直したいと言う、共に生きるように、溶け合って、一つになってしまうように、描写し尽くしたいと欲望することの。或いは体験する事で、当然のように受け入れると言う形をもって自らのものともなったモラルの実践?定着され、映し出され、自らを魅惑するすべて、快楽や官能や、溢れんばかりに豊かな色彩や光線や光と対の影に重要な灰色、肌や手や眼や唇や存在そのものであるかのような肉体と映画そのものであるかのような表情、或いは幾つものめまい、速度や広がりや動き、限りなく近づくこと、フィルムに定着すること、定着したいと欲すること、モラルや欲望や幸福と言った、そのすべての実践として、小説は書かれたのだろうか…などと考えてみたくなる。

実践と言ってはみたものの。指と言葉は親密で、実践という言葉を介さなければいけないほど、両者の距離は離れてはいないのだと思う。言葉はむしろ指の、魅惑された身体の延長線上にあるかのようだ。書くことの必然性のようなもの。熱っぽく幸福な、切実さのようなもの…。