2022年3月21日月曜日

竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』

〈自分自身がいかに既存の言語のなかに幾重にも取り込まれている存在なのかに気づいて、愕然とした。〉〈自分が粉々に砕けるような気がして、恐ろしくて身がすくむ思いがした〉…いや、まさしく。解いても解いてもまだある。どこまでも解けてしまえることの怖さ。まだ十分ではない。解いても解いても、抜け出すにはまだ至らない。気が遠くなりそうだった。〈慣習的な約束事なしに機能することができない言語活動は、わたしたちの声を―わたしたち自身の声であるはずなのに―いつも、どこかべつの場所からの声にしてしまう。〉〈そしてわたしたちに、「正しい」声が「正しく」送り届けられない。受け取られない焦燥感、苦痛、屈辱、悲憤、あるいは瞞着や安堵さえも、もたらしている。発話はかならず、言語に仮託された、むしろ言語そのものである権力の洗礼を受けている。正義は、だから、つねに言語活動からすり抜けていく。〉…〈翻訳という(不)可能な技法による正義の逆説的な実践〉について、それがどのようになされていくのか。 
〈《父》のメタファーを拒否して、彼らが葬り去った〈母なるもの〉を蘇らせようとしても、その理論が〉〈母なる〈カオス〉に依拠する場合、その外部性の強調が、逆説的に内部(ロゴス)の補強となってしまう危険性がある。〉…〈システムの「外部」を解放の契機として特権化して語ること〉の危険性、或いはカウンター的と言うか求むる地平の比喩もまた〈現実に存在している社会的差異を無視するもの〉であっては、〈女という外部を均質化することによって、社会の周縁に置かれているさまざまな女たちを結果的に排除することになってしまう〉ということ。「語りえぬもの」に声を与えると言うことがどのようなことであるのか(その困難さやその過程において幾つもの問題を越境し行くことの必然さ)をまさしく実感しながら読む。取りこぼしてしまわないためには、ここまで行かなくてはならないのかと思う。絶望的な気持ちにさえなる。けれども読んでよかったと思う。そこには確かに、自分の求めていた言葉があった。〈記憶は忘却のなかから立ち現れ、あなたの〈不在/存在〉はわたしのいまの出来事になり、時間の連なりはわたしのなかで大きく弧を描いて、眼前の「水平線」をさらに遠くへと広げていく―性の制度はいまここで、あなたを忘れないわたしのなかで変貌を遂げはじめている。〉これは自分の読みたかったものだ。求めていた言葉に出会えのだと、確信する。


 〈記号の攪乱は、それから目を逸らせることによってではなく、記号自体が無効になるまでその記号の意味の範囲をラディカルに押し広げることによってはじめて達成されるものである。〉…その記号の攪乱の、実践そのものであったような小説に、自分はかつて魅惑されたことがあったのではないか?そこから何もかも、変わってしまったのではなかったか?『愛について』を読むことは、そのような小説に魅惑されたことが、かつてあったのだと言うこと、そこから何もかも(例えば読めるもの、読めないもの、読みたいと思うもの、と言った好みや基準)が変わってしまったのだと言うことを、並行して思い出すことでもあった。