2021年11月12日金曜日

金井美恵子『彼女(たち)について私の知っているニ、三の事柄』と言う楽しい細部の集積

『小春日和 インディアン・サマー』以上に細部の集積、具体的な事柄…映画や本や物や服や食べ物や動物や人や言説や事例や事件や出来事やエピソードや会話、の集積で出来ていて、それを読むことで、なにを生き直すかと言えば、桃子や花子たちの現在であり、もしかしたら自分のものでもあるのかもしれない、現在、暮しや毎日や日々、と言った、ただひたすらに現在(かつてそうだったものも含め)、と言うべき時間と実感と世界であるように思う。
細々と好きなところを挙げて行けばそれこそ果てしない。例えば桃子の、洗濯の〈干すこととそれを取り込んで畳み、タンスなりなんなりの所定の場所に収納し、必要に応じてはアイロンもかける、というあたりがことに大嫌い〉で、〈家事の繰りかえしの単調さに〉敏感なところ、〈小林と私の間には何も特別なことはあり得ないのだ。〉と言う直感と、その通りであることなど、と、とことん具体的である細部の数多…〈『戦艦ポチョムキン』と『戦艦バウンディ』と『果てなき船路』と『海賊黒ひげ』とアーサー・ランサムがめちゃくちゃに混りあった、面白いのだけれどグロテスクな長い夢〉や〈南米のラクダ科の編みぐるみとインディオの女の子のお人形二つ〉に〈茶色の木彫りのテディ・ベア風の手足の長い〉〈おすわりのできる熊さん〉や〈日東紡のふきん〉や〈あんたのおばさんの書いていたデュラスのインタヴュー集の書評〉や〈水蜜桃〉や〈猫のフェリックス君の顔をプリントした半袖、半ズボンのパジャマ〉や〈おばあちゃん直伝のスパイス入りロイヤル・ミルクティ〉(しょうがとシナモンとクローブとカルダモンとのこと)や〈万能赤玉〉や〈フローベールの『紋切型辞典』の「シャンパン」の項目』や〈黒トラ柄と俗に言われる家のトラちゃんの縞柄の濃い褐色に似て〉いる〈ギネスの色〉や〈美容師の菊田さん〉の〈鈍感さと繊細さが混った紋切型の感慨〉や〈「阿Q風冷奴」〉や〈去年のバーゲンで買ったポリエステルとポリウレタンの混紡の薄いグリーンのカット・ソーのシャツ・ブラウスとウールと絹の混紡のベージュのパンツ〉や〈石井桃子の『山のトムさん』〉や〈ニラがゆ、梅肉エキス、センブリの煎じ薬の民間療法系三点セット〉や〈キティちゃん柄の浴衣〉や母親の〈「あたしを見て育ったはずなのに」〉という言葉、或いは〈「若おかみの会」〉のぞっとする感じやおなじみの〈「ラ・ボエーム」〉周辺のあれこれ、〈並木さん〉が〈会津八一について自装の研究書を地方の出版社から出したりもして〉いるなどの、細部、それこそ読むことで、生き直すことを可能にする魅力的な細部の数々を、書き出し始めるとキリがないのだけれど、その最たるものが、『プラトン的恋愛』の試験問題から始まる桃子と花子とおばさんと、途中からは岡崎さんも加わって延々と続いて行く、ながいながいおしゃべりではないだろうか。彼女たちのおしゃべりを共有することの楽しさ。ひどく具体的で、広範囲で、とりとめなく、行きつ戻りつして、横道にそれたり、それっぱなしで戻ってこられなかったり、粘り強く軌道修正したり、思わぬ妨害を受けて、思った方向に進められなかったり、伝わらなくて、噛み合わないし、ズレた事を言われて苛立ったり、疲れたり、白けたり、例えに失敗したり、後々効いて来たり、やり込めようとしたけれど反撃にあって、しぶしぶ折れて参加したり、聞こえないかのように無視されたり、あえて外したり、お互いに合致して盛り上がったりと、思わぬ広がりを見せて続いていく、彼女たちの会話と笑いと、自らの今に対する、まったく前向きでも積極的でもない、ただの現在に過ぎないことを実感として知ってもいる態度を共有することは、自分にとって、最高に楽しいことであるのだ。またこの際の彼女たちのおしゃべりは特に、前作ではおばさんのエッセイや短篇と言う形で提示されていたもの、と言うか、その役割を担うかのように、自己批評的であって、これまでの金井美恵子作品の読書体験の多くを思い出させると同時に、この後書かれることになる金井美恵子作品への広がりをも予感させるものであるように思う。 
そうでなくてもわかる、と言うか、心当たりがあって、日々感じていて、よく知っていて、共有し得る感覚、不安や苛立ちや疲れや憂鬱や気怠さや笑いや楽しさ、と言ったものの多いシリーズ。〈その一日も、いつもと同じように終わった。終わったとはいっても、もちろん充実感と共にそう思ったわけではなく、なんとなく、いつもと同じように眠りについた、ということなのだ。〉…〈二人でここで共同生活をはじめた時の興奮というか昂揚というか、緊張感と奇妙な倦怠と、曖昧でぼんやりしたままにしておきたいと思っていた未来への漠然とした不安やらが、何一つ変わらず、十年という時間を無視して、いきなり、まるで地続きというか一つながりの時間だったかのようによみがえり、私は、ちょっと、ぞっとした。〉そう、これはもう、本当にそうなのだ、いつだってそう、まったくもって、地続きでしかない。つくづく一つながりの時間でしかないと、何度も何度も、自分もまた思い知るのだ。