2022年5月12日木曜日

山尾悠子『新編 夢の棲む街』

薔薇色の、美しい本。夢は浸透し、繰り返される。新たに生き直される。新たに生き始める。幸福な波及。その結晶。薔薇色の脚たち。言葉は理だ。法則だ。決め事だ。楔だ。すべてだ。世界そのものだ。破滅さえ予め組み込まれている。その何もかもを網羅し尽くすかのような豊かさと膨大さに、やがて復讐されるだろう。やがて自らさえ呑み込まれてしまうだろう。「夢の棲む街」などもう、無理だろう、これは誰も作り得ないと思う。誰も穿てない。誰も行けない、ここまでは。言葉は高まり、上昇し行くけれども、自重からは、重力からは逃れ得ない。そのまま浮かび続けることなど出来るはずもない。いずれ雪崩れ込むようにして落ちて行くほかないのだ。上昇の速度と緻密さと快楽の分だけ、或いはそれ以上に、崩壊は美しく、凄まじく、華々しく、圧倒的なものになる。夢を編む言葉の重力によって街は必然的に崩壊するのだと、そう思っていた。無にさえなれないのならば時を止めてしまうほかないのだと。けれど再訪したそこは? 
雪崩れこむような終わりをも含み、夢の時間のみで完結している凄みと言うか、穿てない、密度と硬度があったように思う。今はもっと、より膨大さを増していて、入れ子めいていて重層的で手強くて、けれど近しい。速度だけはあまり変わらない。山尾悠子の小説の速度感、その急速さは、いつも肉体的快楽であるとしか言いようのないそれなのだ。めくるめくその速度にまずは幻惑される。 

 川野芽生による解説も素晴らしい。始まりから、作家が〈演出家と〈薔薇色の脚〉とに引き裂かれている〉ことに、鋭敏に反応する冒頭から、既に信頼出来る、と思う。かのものがたりが〈滅亡によって締め括られなければならなかった〉ことの必然性から。このひとは信じられる、と思う。老大公妃の、〈すでに死者である〉その人形を前にした際の、目眩にも似た感覚を、或いは〈「薔薇色の脚」の一体目の人形〉の〈とても可愛らしかったこと〉、その実感と揺らぎを吐露する言葉を、〈友人〉として、〈隣人〉として、彼女らと向き合い続けようとする言葉の緩みのない強さを、魅惑として、切実な、けれど鮮やかに煌めく魅惑として、体験した瞬間のことだっただろうか。このひとの言葉をもっと読んでみたい、と思ったのは。自分の記憶さえ、「薔薇色の脚」を目の当たりにした自分の記憶さえ、新たに輝き始める。
 〈人形たちは、魂を水晶の函に仕舞っていた。〉…読む者の(と言うか自分の)、これまでのさまざまな快楽的な読書体験が、それを読むことで、溢れ出すようにして浮かんで来る文章と言うものが確かにあって、この文章が、自分にとってのそれであった。