詩人の言葉を語る言葉の多さ。水であるその言葉。言葉は明らかに水なのだ。液体のような、〈詩を書くことの困難と感受性の細胞の破れやすい皮膜から流れ出した〉言葉、〈細胞液〉〈悪しき水〉〈この、様々な粘着度の液体と水〉…浸水される詩人、〈水の粒子の粒立ちと水のなめらかな肌の悪意〉〈液体状のものの持つおぞましさとして〉幻惑の〈呼び水〉或いは書くことの苦痛たる〈逃げ水〉となり溢れ出すこと。まるで交接の快楽と痛みと苦しみを語るかのようなそれら。詩人の水たる言葉との。まるで直に交わり、立ちあったかのようだと思う。その水がどのように生成され、どのように内よりあらわれ出たのか。それを語る言葉の異様なまでのなまなましさと親密な濃さ、自らもまたそれを知る者の、水たる言葉との交接の快楽と官能の体験を持つ者の言葉ではないか。
〈言葉を手づかみにしたかの子の高揚した歓喜〉を『浴身』に見る、金井美恵子の岡本かの子評は圧巻ではないかと思う。〈まるでリンゴ酒の酔いを含んで、わけのない苛立たしい官能に身ぶるいしながら、一人で素裸を温かい湯にひたしているもどかしさのなかで、言葉は素肌をすべって流れ、たぷたぷとゆれるお湯のように、不吉な湯気をたてて、美しい奇声として立ちのぼる。〉…その誕生の瞬間の凄み、そしてかの子が〈やがて小説という、書く言葉の川へと流れ込む〉ことの当然さ。〈書くことの〈私〉性から飛翔して、ついに、川、そして海という、いわば水の無私性、水の複数性へと、言葉と書くことを解き放つ〉ことの。その必然であったことを思い知る。
或いは尾崎翠。尾崎翠を読むことにともなう悲痛さ。それは幾人かの詩人の処女詩集を読むことに似ていると言う。〈完成はされていないのだが、開花されようとして苦し気に身もだえしている一匹の美しい蛹の世界をのぞき見ることの、いつだって悲痛である体験〉、けれどもそれは〈美しい淡い光芒として被さっている〉ものであり、〈光線のなかで飛びかう透明な埃のように軽く、しかもある果敢さに〉つらぬかれたものであるのだ。