2021年11月14日日曜日

『エリザベスの友達』感想と村田喜代子作品における夢の時間

なるほど、彼等は生き直しているのだ。初音さんも、牛枝さんも、〈コウゴさん〉も、〈教授〉も。それぞれが、それぞれの。自らの生きたかつてを、過去を、過ぎ去った時間としてではなく、現在として、紛れもない今として、例えば二十歳の自らとして。それが幸福なものであれ、凄惨なものであれ。誰かに語るべき記憶としてではなく、自らの生きる今として、彼等は生き直しているのだ。内にて生き直している人を前にして、こちらはどうすることもできない。身体こそここにあるけれど、彼等は時空を超えて、行ってしまう。時空を超えて、生き直してしまう。だからこそ、こちらは無力だ。どうやってもそこへは行けないのだから。彼等の生きる今と、こちらの今は違うし、彼等のいるそこと、こちらのいるここも、当然異なるものであるのだから。受け入れるほかないではないか。彼等が生き直していることを。こちらの求める理屈や感情からはとうに離れたところに在るのだということを。初音さんの生きる今、謳歌する自由の輝かしさ、その楽しさと幸福な充足を目の当たりにしてしまっては。 
初音さんをこちら側にて見守る姉妹の、その眼差しの穏やかさが印象深い。戸惑いも、寂しさも、不安も、やり切れなさも、当然あって、けれど彼女たちは初音さんがここにはいないのだと言うことを受け入れる。自らと同じ場所にいないのだと言うことを受け入れる。介入もせず、妨げもせず、ただ見守り続ける。まるで、生き直し続ける彼等の夢の時間に自らの歩調をも合わせるかのように。どこまでも穏やかだ。

『雲南の妻』のあの束の間の穏やかさ、開かれていて自由で、風のように軽く、鮮やかに、豊かに潤っていた夢の時間を思い出しもする。村田喜代子の夢の時間はいつも開かれていて自由だ。夢同士が自在に繋がってもおかしくはない。村田喜代子の小説において、生は常に重く、特に肉体の重さと言うか、自由に脱ぎ捨てる事が出来ないものの重さみたいなものを強く感じる。決して自由なものではない、縛り付けられているかのように移動さえ不自由な、生の重さと言うか重力。風のような軽やかさはいつも夢の時間の中にのみ、ある。或いは老い切る前の、老い始め、老い行く最中の重さ。夢の時間へは夜から、眠りから、日常の片隅に開く裂け目から、そして死から。『蕨野行』や『百年佳約』などにおける死もまた当然夢の時間に属するものだろう。