初音さんをこちら側にて見守る姉妹の、その眼差しの穏やかさが印象深い。戸惑いも、寂しさも、不安も、やり切れなさも、当然あって、けれど彼女たちは初音さんがここにはいないのだと言うことを受け入れる。自らと同じ場所にいないのだと言うことを受け入れる。介入もせず、妨げもせず、ただ見守り続ける。まるで、生き直し続ける彼等の夢の時間に自らの歩調をも合わせるかのように。どこまでも穏やかだ。
『雲南の妻』のあの束の間の穏やかさ、開かれていて自由で、風のように軽く、鮮やかに、豊かに潤っていた夢の時間を思い出しもする。村田喜代子の夢の時間はいつも開かれていて自由だ。夢同士が自在に繋がってもおかしくはない。村田喜代子の小説において、生は常に重く、特に肉体の重さと言うか、自由に脱ぎ捨てる事が出来ないものの重さみたいなものを強く感じる。決して自由なものではない、縛り付けられているかのように移動さえ不自由な、生の重さと言うか重力。風のような軽やかさはいつも夢の時間の中にのみ、ある。或いは老い切る前の、老い始め、老い行く最中の重さ。夢の時間へは夜から、眠りから、日常の片隅に開く裂け目から、そして死から。『蕨野行』や『百年佳約』などにおける死もまた当然夢の時間に属するものだろう。