〈朝にできて、夕に消える、まだ内容もきまっていないことばも多いけれど、そうでなく、長く使われて-私たちの生命よりも長く使われながら、聞く者、読む者に何を考えたらいいか、迷わせることばがある。〉…自らの手元や周囲にある言葉に関心を抱き続けること。〈自分の手の内の〉言葉を、〈しげしげと〉見なおしてみること。要不要を簡単に決めてしまわないこと。何を語るにせよ言葉は常に十全の状態で、読めばそれは相手に伝わるように、その手の内で、丁寧にみがかれたものであることがわかる。教訓的であることの醜悪さとは無縁に存在してしなやかな、その語りの美しさ。例えば春。〈何がかわったら、こう、冬でなく、春だという感じをひとにあたえるのか、私は、半分放心したまま、目をこらした。〉〈ねていた時から、朝のスズメの声が、きゅうにうるおいをおび、はずんできたのはわかっていた。が、いま庭を見ると、なじみのスズメ一家は、ねるまえの二倍くらいの大きさにふくらんだ感じで、とびまわっていた。かれた芝生には、雑草が、ボツボツとみどりの芽をだしていた。ツルバラの葉っぱは、樹液がたっぷり流れだしたように分厚に光っていた。ニレザクラの芽先は、プツプツふくらんでいた。〉
〈井伏さんは、きっと私を喜ばそうと、そのいい評判を私にしてくださったのだろうけれど、私は、自分がえらくないことをよく知っていたし、それに、えらいという子どもらしい表現が、私にはとてもおかしく思えた。〉…自分はことに、石井桃子の「太宰さん」と言う文章が好きで、これは本当に、〈太宰さん〉との距離やその印象や思いを、何も損うことのないよう、大きくも小さくもならないよう、一切の雑さや乱暴さを排し、言葉を尽くして書いたものであるように思え、ここに書かれていることそのもののすべてを自分は愛する。他の誰の、何の言葉を以ってしても、語ることは出来ないし、どのような形にも、そう簡単には落とし込むことが出来ない類のおはなし。決めてしまいたくない。大きくも小さくもしてしまいたくない。書かれているそのままを、その言葉のままで、自分は愛する。