2022年1月13日木曜日

小沼丹『埴輪の馬』感想と小沼丹の文章雑感

小沼丹の文章は、いい。いいなあ、と思う。今はもう、ここにはいない人たちの姿が、その仕草や癖や表情が、不意に、脈絡もなく、浮かんでは消え、それも感傷的にではなく、何かこう、重さを伴う余韻を残す訳でもなく、本当にすっと、消えてしまい、こう言うのは本当に、悪くないし、いいなあ、と思う。
 何か、明確な目的がある訳でもなく、ただぼんやりと歩くことにも似た、緩やかな追想の速度。記憶を歩行すること。まるで歩くように、追憶すること。覚えていることと、忘れてしまっていることの、その境目の不可思議さ。何故それだけを覚えているのか。その後どうしたのか。どこにも繋がることなく、ただその場面や言葉だけを強く覚えていると言ったような。記憶から抜け落ちてしまったものは抜け落ちたままで、特に困りもせず、やはりゆっくりと、そのまま歩き続ける。
 具体的な物や事柄と、分かち難く結び付いてしまっているが故に、平素はすっかり忘れてしまっていて、そんなこと、想い出しもしないのだけれども、ひどく具体的であるそのものを目にした途端、鮮やかに浮かび上がって来るような、幾つもの顔や声や姿や光景。想い出せば彼等は平然と、現れる。かつてのままの姿を以って、不意に、現れてはまた平然と、消えてしまう。重さを伴うことなく、何をも残すこともなく。ふっと。いつもその場に残るのは生きている書き手だけだ。自分にはそれが、この上のないものであるように思える。不在の何か、或いは死と言うもの、今はもういない、いなくなってしまった者たちのことを書いた文章の中で。小沼丹のそれが、自分には最も好ましいものであるように思える。

 〈…その商標を着けて関口が夜中に出て来たのだから、何だか懐かしい。まあ、ゆっくりして行き給え、と云いたいが関口は立停らずに、大きな鞄を提げてどんどん歩いて行ってしまった。その後姿が妙に年寄染みて見えたのは、一体、どう云う訳か知らない。〉…死者は語り手と異なる速度で現れては消え、残された語り手はずっと〈どう云う訳か知らない〉まま、緩やかな歩行の速度で追憶し続ける。
 〈落葉が溜ると掃寄せて、落葉の山に火を放つ。白い煙がもくもくと脹れ上って風に流れるのを見ていると、いろいろの顔を想い出す。想い出した顔は、煙と共に消えてしまうが、消えても一向に差支え無い。〉…この〈差支え無い〉の部分がそのまま、自分の感じている小沼丹のよさであると言える。色も匂いも重さもなく、けれど軽やかである事を象る訳でもない。ただそれは当然の事なのだ。ただ当然の事である差支えの無さ。諦めによってではなく、冷淡さによってでもなく、その当然さを語り、それを何の齟齬もなくこちらに納得させてしまうからこそ、自分は小沼丹を読んで、いいなあ、と思うのだ。