その時間、と言うか、その時代を実際に生きていればいるほど、知っていればいるほど、生き直すことの快楽もまた異なる高まり方をするのだろう。けれどもそこに再現されている"今"とは別の時間なり時代なりを生きて来て、その時間を実際には経験していないこちらの記憶さえ無数に、読むことで引き出されてしまうのだし、引き出された自分の記憶とさえ、細部は、小説は、結び付いてしまう。順序なく、区別なく、絡まり合ってしまう。今も、時間も、記憶も、結び付くことで、絡まり合うことで、より複雑に、不明確に、重層的なものになって行く。それを読むことで体験する、生き直しつつそれらがより重層的なものになって行く体験をすること。重層的に高まり行く快楽を体験すること。
例えばあの、〈どの家もまゆみの生垣を四方にめぐらして曲り曲った廊下のように続いている一角〉と〈曲がり角と同じ数だけ〉ある〈濃いブルーや紫やごく淡く色づいた紫の花が無数の泡のように沸き立つ紫陽花の植え込みのある前庭につきあたるバラス敷きの小道〉(〈家に帰るためにこの一角に足を踏み入れるたびに、道に迷うかもしれないという微かな不安とおびえを〉感じもする…)や、〈じゃりりと歯にあたって〉〈いつまでも歯と舌の上で〉〈きしきし軋みながら〉残りつづける〈砂の粒〉(〈ゆるやかに攪拌〉される〈ピリピリした杉の若葉の匂いと湖に繁茂する水藻と湖の底に溜っている死んだ水棲動物の混りあったなまぐさい水の匂い〉)、或いは静脈(〈薄いすべすべしたピンクがかった皮膚を透して〉〈三角洲にむかって流れる川か、苛性ソーダに浸して柔らかな葉肉をとかして固い繊維だけを残した透きとおる葉っぱのしおりに浮かびあがっている太い葉脈のように〉見える…)であるとか、りんご(〈桃色の光芒で閃きながら〉〈網棚からこぼれ落ちつづける赤い球体〉)、などと言ったものたちと小説のなかで再び出会うとき、小説が円環状にではなく、小説そのものがまるで小説の呼び水そのものであるかのように絶えず無数に伸びて行き結び付いてはつづいていくことを、金井美恵子がずっと一冊の本を書いているのだということを、まざまざと思い知らされる気がして、めまいがするほどだ。