〈涎〉〈血〉〈涙〉〈汗〉〈生温い粘液〉〈温く生ぐさい薄桃色の液体〉〈ドロドロした熱い酸性の粘液〉…彼女の愛と照応する、さまざまな粘着度の水。痙攣をともない放出されるそれら。〈このように暗澹とした痙攣の中でなくてはAが Pに向って自分の愛について喋りはじめることはなかったはずだ。〉…口唇が〈彼女の内部そのものを覗かせている〉〈裂目〉であるならば、彼女の口腔を充す〈腐敗した食物と酸っぱい胃液とねばねばした唾液〉もまた、愛の言葉として放出されるはずだった言葉の残骸とでも言うべきものなのだろう。消化不良の、言葉になることなく腐敗した言葉。愛を語ることの不可能性の苦痛。〈いやな臭いのガスの泡が表面にぷくっと浮びがる。〉〈わたしの胃袋は、まるでドブ川のようだ。ドブ川を口の中から吊り下げて暮しているのだ。〉〈食物も薬も、それからPの唾液も、アルコールも、言葉も、何もかも呑みこんで〉しまい、吐き出し、放出し、滞らせ、腐敗させて。
〈老婆は濃い色の、たたみじわの出来た着物を着ている。着物はいたるところ、老婆の身体から離れていようとするかのように、衿や肩や袖が奇妙にピンと角ばっている。〉〈老婆は小柄でやせていて、茶色の皮膚からは全ての水分が乾き果ててしまったようだった。〉…待つことを信じる老婆、〈期待から希望を、信じることから生きることを除去し〉、自らの内にてのみ情念を腐蝕させ続け、それを放出することなく、不在の息子を〈待つことのみに専念〉する老婆の、肉体上の乾き。着物や、或いはAとの接触における、水分のなさ。互いに浸透することのない接触。老婆が待つこと以外のなにものをも拒んでいるように、Aもまた老婆の情念を共有することはない。童女のような、〈《少女時代》の亡霊〉とでも言うべきような女性との、〈身震いするように全身を痙攣させて、Aの胸に顔をうずめ〉る彼女の、涙と〈きれぎれの言葉を喋りながら流す温かい涎が、Aのうすい服をすっかり濡らして、肌にまで生温かいベトベトの感触がつたわって来る〉ような水分を介する接触でなければ。記憶も言葉も混ざり合うことはない。
不在をどうするのか。不在は肉体をどうするのか。不在の息子を待ちながら、その俤に生きるのではなく、ただ〈待つことのみに専念〉する老婆の、情念を、〈待つことのみに専念〉して生きるその時間を腐蝕させ、肉体上の水分を奪い、或いは《少女時代》の亡霊の、Rと言う、自らの前からいなくなってしまった共犯者の少年を待ち続ける(…と彼女は〈古代の語部のように〉ものがたりを語り、涙と涎と汗をもってAを濡らす)童女の肉体を太らせ、彼女を〈薔薇色のブクブクにふくらんだ肉の中にとじこめ〉てしまう。しかしAは。太りもせず、乾きもせず。Aは〈腐敗した酸っぱい魚肉の生臭さが口腔に広がる不快さを追体験しようとする。〉Aは汗をながしつづける。Aは〈ゆっくりと崩れるように暗闇と沈黙の中に落ち込んで行く。〉言葉の不在、世界の不在。残された言葉、凍りついたあの四つの言葉と、〈無限の連鎖の夜の中で生きつづける〉Pの肉体を前にして。自らを取り囲み、包み込むように拡がって行く夜の中で、彼女は〈失われた言葉を見つめつづけ、Pの肉体をみつめつづけ〉、Pに限りなく近づこうと試みつづける。
氷結した言葉、〈未完成の、あるいははじまったばかりの生の言葉〉、〈詩の断片〉、〈透明な言葉の薄片〉、残された言葉、Pの〈全存在の痙攣の果てに凍りついた四つの言葉〉、循環することのない言葉、夜の闇の中で無限に繰り返される言葉。小説の中で、唯一、輝かしい光線と虹の色彩に彩られるのは、破壊された水道管から噴き出し飛び散る水を浴びて踊り狂う人々の、〈熱狂している肉体そのもの〉と言うべきようなその肉体と、〈原始的な祭儀を行っているようなファナティックな印象〉を帯びた行動と歓声だけだ。あたりまえのこととして水道管を壊して水を撒き散らし、周囲に浴びせかけ、虹さえ作り、自ら浴びては踊り狂う、彼等のそれだけだ。〈周囲の風景から孤立してしまった〉ような〈やけっぱちなところがあり〉〈まるで夢の中の人物のように見える〉彼等の。(…水の飛沫はAのところにまで届く。Aは濡れる。けれどAは濡れる不快さを拒み、乾いた衣服に着替える。)