〈わたし〉がしたいことや、いいと思うことをすればするほど、〈わたし〉は〈わたし〉になって行く。切実で、ひたむきで、他の何者にもなり得ない、強固な〈わたし〉に。その懸命さや純粋さ、ただひたすらに〈わたし〉である姿に自分はいつもたじろいでしまう訳なのだけれども、それと同時に、例えば「父と私の桜尾通り商店街」であれば、〈さくらお通信〉の〈未来の店長大集合!〉の記事を夢中で読む〈私〉の姿に、自分の目は釘付けになる。要求や願望や情熱の爆発として〈わたし〉が見せる行動とは異なる類の、〈わたし〉であることの強さのようなものがそこにはあって、自分の目は釘付けになる。要するに自分は、今村夏子の〈わたし〉に惹かれているのだ。どれだけたじろいでも、自分は結局、今村夏子の〈わたし〉を読み続けるほかないのだ。