2022年4月17日日曜日

今村夏子『父と私の桜尾通り商店街』

今村夏子の書く〈わたし〉なり〈私〉なりに、自分はいつもたじろぐ。と言うか、この〈わたし〉は(今村夏子の別の小説の)あの〈わたし〉なのではないか、としばしば思う。今村夏子は同じ〈わたし〉を繰り返し書き続けているのではないか、とさえ思う。今村夏子の〈わたし〉はいつも、その〈わたし〉以外のものにはなり得ない。自らの最善なり当然なりを選択し続け、結果として、その〈わたし〉になってしまう。どこにも行かない、求めてさえいない、複数化もされない、いつもただひたすらにその〈わたし〉である今村夏子の〈わたし〉を見るたび、自分はたじろいでしまう。
 〈わたし〉がしたいことや、いいと思うことをすればするほど、〈わたし〉は〈わたし〉になって行く。切実で、ひたむきで、他の何者にもなり得ない、強固な〈わたし〉に。その懸命さや純粋さ、ただひたすらに〈わたし〉である姿に自分はいつもたじろいでしまう訳なのだけれども、それと同時に、例えば「父と私の桜尾通り商店街」であれば、〈さくらお通信〉の〈未来の店長大集合!〉の記事を夢中で読む〈私〉の姿に、自分の目は釘付けになる。要求や願望や情熱の爆発として〈わたし〉が見せる行動とは異なる類の、〈わたし〉であることの強さのようなものがそこにはあって、自分の目は釘付けになる。要するに自分は、今村夏子の〈わたし〉に惹かれているのだ。どれだけたじろいでも、自分は結局、今村夏子の〈わたし〉を読み続けるほかないのだ。