小沼丹の語りほどよいものはないという気持ちになる。煙のようであると思い、雲のようであると思い、おばけ(穏やかで害のない)のようであるとも思う。とにかく軽やかなのだ。おかしさも哀愁も、にじみでるようにしてしか出て来ない。いずれにせよ重くのしかかって来たりはしないのだ。
〈俺はこの話をサカタにしていない。する必要もないと思うからである。〉〈しかし、こんなことはもうどうでもよいことだろう。過去の話である。〉…と言うか、万事がそういった風なのだ。そもそも〈俺〉とやらは一体いつどこで〈そのころ〉なり〈いつだったか〉なり〈そのとき〉なりを語っているのか。何ひとつ確かではない。謎にせよ結末にせよ、軽やかにしか語られることはなくて、ユーモアにせよスリルにせよ、大仰さや深刻さとは無縁の、そして軽薄さとも諦めていることとも異なる軽やかさを以ってしか、語られることはなくて、余韻なんて重さを伴うものはどこにもなくて、こちらもさっぱりと、ただいいなあとだけ思う。
勘違いやすれ違いや早合点によって何かに巻き込まれてしまうことの、妙にゆっくりとしていて、だからこそ回避する機会を失くしてしまうような、不可抗力めいた流れにそってひとまず小説は進んで行くのだけれど、そこに深刻さなど微塵もありはしないのだ。万事軽やかなまま、心地よく心憎い洒脱さで終わる。