その緻密で具体的でどこまでも細やかな仕事ぶり。石井桃子と言葉、或いは石井桃子と本。いつも目の前にあって、考え終えてしまうというようなことがなくて、それはもう、愛しているとしかいいようのない関わり方なのだ。〈一つ一つの本が、個性豊かに、形もちがう、大きさも厚さもちがう、装丁もちがうし、組み方もちがうといった風であってほしい〉…本という物質そのものにさわる手の親密さ。九十六歳だろうが百歳だろうが石井桃子の言葉は常にみずみずしい。“プー“が版を重ねるたびに推敲をしていたというエピソードや、五十年ぶりに改訳したという『百まいのドレス』を語る言葉(〈最近、印刷技術に格段の進化があり、昔の絵に赤を強くしてなど、色を再現出来るようになったのを機会に、それならば翻訳をやり直させてくださいと、岩波書店にお願いしてありました。〉)などを読むたび、書くという行為の、或いは作品というものの、終わりのなさを思う。決定的な終わりというものを持たない書くという行為の、その未完結性の只中で書き続けていた、と言うか、決して書き尽くしてしまうことなくし終えてしまうことなく、言葉や本と、向き合い続けた人。
〈私は、ずいぶん歳をとるまで、昔話は「具体」だと考えていました。でも、昔話は具体的に語ってゆくけれど、その世界を大きくとらえて考えると「抽象」だと気づいたのです。〉何という尽きることのなさ、し終えてしまうことのなさ。書くという行為だけでなく、読むという行為にもまた終わりはないのだと、強く感じる。自らの仕事を語るにせよ言葉や本との関わり方を語るにせよ、石井桃子の言葉はいつも簡潔で、具体的なのだ。それは自らの記憶と、読むことで魅惑されるという体験、温かい紗のカーテンのようなものをくぐり抜けて、まったく別の世界へと入って行ったという、〈プーの世界に生きていた〉というその体験に結び付いているために親密な、簡潔さであり確かさであり、つぶささであるように思える。
金井美恵子によるインタビューの中で語っていた〈また私が、自分が好きになれるものでないと訳さなかったものですからね。〉という言葉は、それを言うのが石井桃子だからこそ煌めく類の言葉だろう。石井桃子的なもの、石井桃子的世界を愛してやまない金井美恵子によるインタビューの中でだからこそ。