氷見子は勿論凄いのだし、語り手としてこの上なく賢くて目敏くて、自然物と通ずる身体的な感性も含めて魅力的な人物ではあるのだけれども、凄さで言えば大山のおかみさんの方が上であろうと思う。この小説が如何なる小説であるかを体現する存在としての大山のおかみさん。
悲劇をより湿っぽい方にではなく、血なまぐさく、より報われない、より容易でない、完膚なきまでに悲劇である方へ。この小説を、或いはやがて迎える終章の悲劇性を傑出したものへと高めているのは、大山のおかみさんのその濁った白眼と、誰にも妨げられることなく通ってしまうその明快な言葉なのかもしれない、と思う。
複雑で、手のつけようがなくて、〈すべてがぎこちなく、くいちがったものに〉見える事態の中で、おかみさんの言葉だけが、不気味なほど明瞭に響いてしまうということ。おかみさんの言葉だけが、まったく正しかったのだということ。〈「おかみさんて、ほんとに、アタマがはっきりしていて、いいなア」〉