2017年3月17日金曜日

マルグリット・ユルスナール『東方綺譚』

今はもう、どこにもないもの。今はもう、起こり得ぬもの。もう二度と現れぬもの。再現不可能であるもの。ただその痕跡だけが残るもの。今はもう、どこにも存在せず、起こり得ず、再現不可能であるが故に、自身が存在していた時間の、豊饒さを自ずと証明するもの。もう二度と現れぬそれが、当然のように存在していた時間を。羨み、慕い、救いとし、人々が今なお語り継ぐもの。
今に在るこの身にはあまりにも身遠く、語り継がれる物語を、辿り、手繰り寄せ、ようやく出会え得るもの。今に在るこの身にはあまりにも馴染み難く、自然と言う、人の手には負えぬ悠久に属するが故の奔放さを備え、残酷さを備え、魅惑的であるもの。倦怠と空虚の今に在る、この身では。決して掴めぬもの。なにもかもを手放し、声を捨て、身体を捨て、今を捨て、ようやく届くもの。
汚さぬよう、清濁混じり合う素朴ささえ損なわぬよう、言葉が流麗に物語るそれは。美しく、けれど美しいだけでは終わらぬ、深遠な幻想の源となるそれは。



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マルグリット・ユルスナール
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