2017年7月7日金曜日

矢島翠『ヴェネツィア暮らし』

矢島翠が教えてくれるヴェネツィアは、そこに住む人々にとっての当然であり、現実であり、日常であるヴェネツィア。旅行者が身勝手に見続けて来た夢になど左右される事なく、ただ自身の現実を、毎日を生きている人々のヴェネツィア。それが彼等の当然であり、それが日常である事にこそ、凄さを感じるような。ごみも、洗濯物も、当たり前にあるヴェネツィア。そこに住む人々の生活の証とも言うべきもの達が、当たり前にあるヴェネツィア。黙殺せず。何か、特別な意味付けをする事もなく、教えてくれる。
けれどそれでいて、その場所が持つ演劇性や夢幻性は、そこに暮らし、実際に生活をする事で薄れて行く類のものではないと言う不思議。そこでの日常を経験しても、その場所の非日常的な魅力は枯渇する事がないと言う不思議。例えそれが現実的な雑事の為の外出であったとしても、外に出る度、夢のような楽しさを感じていた事。複製品ではない、オリジナルのつくりもの、つくりものの原物であると言う美しさ。老いて行く、滅びて行く、〈自然と時の力におだやかに従いながら、かき消えて行くべきもの〉であるが故の、〈複製へのつくり替えの一歩手前で、自分自身の生命力をきわどく保ちながら、その危うさの魅惑によって、一層、人の心を惹きつけてやまない〉美しさの事。鮮明さを増す情景に反して、印象はますます夢幻めいて行く。

多くの人間がその場所の為に言葉を尽くし、けれど未だ語り尽くされる事なく、特別なまま存在している場所。須賀敦子のヴェネツィア。矢島翠のヴェネツィア。日常があり、それでいて非日常的な魅力は損なわれる事がなく、自分の中で、ますます夢のような場所になって行く、ヴェネツィア。
須賀敦子の言う〈翠さんの本〉、かなり近い所でお話して頂いているような感覚。親しみ易く、この人は信用出来るとすぐに確信する。誠実な書き手。読み手である此方に対しても、また自分自身に対しても。この上なく誠実に言葉を尽くしていたように思う。いい本だった。



ヴェネツィア暮し (平凡社ライブラリー)
矢島 翠
平凡社
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