2018年5月5日土曜日

『須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京』

須賀敦子と言う書き手が誕生するまで。須賀敦子が須賀敦子に、作家としての自らに至るまで。須賀敦子が自ら書き始めるまで。幾つもの顔、幾つもの面を持つが故に。自らを集める事が難しく、自らを一致させる事が難しく。長く、苦しく、複雑で、困難であった旅路。そのいずれもが本当であり、重要であり。それぞれ独立した、交友関係さえそれぞれで異なる、幾つもの表情、幾つもの自分を持つが故に。奥深く、把握し難く、濃密で、色豊かなものであった、須賀敦子の旅路。

須賀敦子の文章はまるで舟のようであるな、と思う。現実をそっと、その内に息づく感情ごと、その空間ごと、現実の外側へと運んで行く舟。言葉にされた記憶はとうに旅立ち現実を離れ、独り立ちし、やがて独自に生き始め、今もずっと、終わりを持たぬ流れの上を、穏やかに、緩やかに漂い、生き続けている。
自分にとって須賀敦子を読む事は、現実を離れて独立し、現実の時間の流れの外側で、独自に生き始めた記憶の中へと、彷徨い込む事。元は現実であったもの達が、現実を離れた場所で、色褪せる事なく、現実であった頃よりも色濃く、独自に生き続けている姿を見る事。生き直す、とはまた違う体験。生き直す事とはまったく別の、夢を歩いているかのような、不可思議で、心地よく、微かに寂しい。彷徨い込むと言う体験。目の当たりにすると言う体験。
痕跡のようなもの。名残のようなもの。その文章を読む事によって彷徨い込み、眺め、感じ、歩いた、須賀敦子の記憶の。今はもう、現実を遠く離れた記憶の。そこに確かにいたのだと。かつてそこに、確かに存在していたのだと。得心する。夢になる前。それは確かに、現実であったのだと。納得する。
痕跡は時に、その言葉の奥底にあるものの姿を、或いはその感情の正体を、その孤独の、その決意の、その熱意の深遠さを、或いは作品として言葉にされる事のなかったもの達の存在をも、静かに物語る。埋まって行く、と思う。徐々に。近づいている、と思う。到底及びはしないのだけれど。今一度、彷徨い込みたい。訪ねて行きたい。




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大竹 昭子
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