2022年2月18日金曜日

ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』

結局の所上手くいかず、辿り着けはせず、満足はせず、容易く撤回されてしまう、打ち消されてしまう、快楽や欲望を媒介にして〈写真〉の〈本性〉を探る試みの、けれど極めて官能的であるその断片、いくつか…〈私にとっては、「写真家」を代表する器官は、眼ではなく(眼は私を恐怖させる)、指である。つまり、カメラのシャッター音や乾板をすべらせる金属音(写真機にまだ乾板が使われているなら)と結びつくものである。私はそうした機械音にほとんど官能的な愛着を感ずる。〉〈一軒の古い家屋、影になっているポーチ、屋根瓦、昔のアラブ風の装飾、壁に寄りかかって座っている男、人気のない街路、地中海沿岸に見られる樹木。この古い写真は私の心を打つ。私はひたすらここで暮らしたいと思う。……私はそこで繊細に暮らしたいと思う〉 
それらでは辿り着かないと、もっと深く、〈自分自身の中にさらに深く降りて〉いく必要があるのだと、予めわかっていた通り、〈私〉は前言を取り消す。「温室の写真」…〈まさしく本質的な写真〉と言うべきもの、〈私にとって、それは、唯一の存在を扱うありえない科学というユートピアを実現させてくれるものであった。〉導き手としてのそれ。〈私にとって確実に存在しているこの唯一の写真から、「写真」のすべて(その《本性》)を《引き出す》こと〉〈私の最後の探求をおこなう〉ための。〈それゆえ、いかに色あせていようと、「温室の写真」は、私にとって、その日、少女だった母から、その髪から、肌から、衣服から、まなざしから、発せられていた光線の宝庫なのである。〉…この"光の宝庫の豊かさ"こそがまさしく、自分の求るもの、読みたいと求めていたものなのだ。
 〈一枚のブルーの布地(もともと、この織り方の布地は、厚みと同時に光をあてれば透けて見える薄さというか柔らかさを持っている)に、あふれているはずの外界の白い陽光を遮断されながら浸透されてもいる〉(金井美恵子『小春日和』「テクストと布地」)…その明るい部屋。 

 ロラン・バルトに関してはもう、どんなに快楽的に読んでその書物を自分が愛していても、それを実践するための表現方法を持たない以上、引用する以外にロラン・バルトと言う快楽を語る術がないのだ。それも極めて断片的で流動的で分裂するように増殖するように断定してなお翻して絶えず転じ続けるし、引用した所でそれもまたかつての快楽の痕跡に過ぎないのだけれども。
 例えば『明るい部屋』において〈まるでエピグラムのように〉使われている〈一枚のカラー写真〉、その〈布地の写真〉を描写することで、金井美恵子は自らがこの薄く小さな本を、如何に愛しているのか、と言うことを表現してみせる。〈明るい光は「織り目と織り目の交錯するすき間をとおして燃えあがる炎」(アントナン・アルトー)のように上方を染め、布地は浸透膜のように液体化された光を通過させる。〉…こう言ったような、読むこととそれを愛して書くことの実践の、その中でも殊更に魅惑的なものを読んでしまっている以上、自分にはもう、引用するほか術がないのだ。