金井美恵子の書くものの中に、石井桃子は確かに埋め込まれている。自分にとって、『幼ものがたり』を読むことは、金井美恵子の中に、石井桃子が埋め込まれていることを再確認することでもあった。記憶をどうするか、どう書くのか、書くことのモラルと言った部分において。或いは書くことに関して、決して感傷的にはなり得ない、客観性のユーモアと言うべきもの。〈忘却と記憶の現前というおそらくは文学史上の特記されるべき主題〉をどう書くのか、何を通して書くのかと言うこと。〈「歌」を思い出すために〉、〈記憶の迷宮のような旅路を彷徨すること〉と、〈冷蔵庫の上にメモ用紙と鉛筆をおいて、鼻歌をうたいながら台所仕事をすること〉の、後者を自らの好みとして、当然のように金井美恵子に選択させてしまう、主たる要因としての石井桃子的世界、石井桃子の書く、その〈おだやかでつつましい日常生活の濃密な細部〉を読むことの豊かな楽しさ。〈記憶は常に具体的な「場所」のなまなましい光景と共に、一見、日常茶飯な雑事を通して、鮮やかな「時間」として再度生きることが可能なのだということ…〉
〈『幼ものがたり』は、いいようのない豊かなつつましさでもって、自伝的小説の持つあられもない生真面目さで肥大化した数々の〈自己の物語〉の醜悪さと、ひっそりとおだやかに甘美に対立している。〉…〈私の幼年時に埋め込まれた一部分〉である石井桃子を語る金井美恵子の言葉によって、自分はどこへ向かうか。それは当然、石井桃子の方へ、その言葉によって、自分は何度でも石井桃子を再発見するのだし、けれども同時に、自分はそれを語る金井美恵子自身の方へも、再び向かわされるのだ。石井桃子を語る金井美恵子の言葉を、自分は知っている。体験として知っている、と思う。石井桃子を読むことの魅惑として語られるその多くを、自分は金井美恵子の小説なりエッセイなりを読むことで、かつて、幾度となく生きて、体験して来たように思うのだ。金井美恵子は確かに、自らの中に埋め込まれた石井桃子を、石井桃子を読むことの楽しさを、その体験と魅惑を、読むことと書くことのモラルの中で、実践している、と思うのだ。