〈空の高い高いところから、ながい、ながい、ながい、ながあい、白い布がスルスルと際限もなくおりて来るというイメージは、まったく退屈で無意味で物語的要素というものを一切持っていないし〉〈そのうちに、際限もなく空から落ちて来る無限の白い布のイメージに眠気を誘われる。〉〈その後で父親はすぐ死んだので、無意味に白くきらめきながら際限もなく落ちて来る布は、その後、わたしが書くようになった「言葉」そのもののように見えるのだ。〉
…そのような「言葉」、金井美恵子の「言葉」以上に魅惑的なものなど、自分にはないように思われる。金井美恵子の「言葉」があると言う喜び。またこれ以上ないのだ、この文章は。金井美恵子の「言葉」をあらわすものとして。それはまさしく金井美恵子の「言葉」そのものなのだ。他の誰のどのような言葉なり言説よりも、金井美恵子の「言葉」を、それがいかなるものであるかを、確かに鮮やかに示している。
或いは記憶について。〈過ぎてしまったことなのに、まるで、それが《今》であるように浮びあがる、記憶、ひりひりとした、それでいながら微笑を誘いもする切なく甘美なイマージュの群れ〉、時には、と言うよりもしばしば金井美恵子に小説を書かせてしまいさえするそれら、〈なまなましい記憶の細片の群れ〉、生きていることが、そのように《今》という時間を消し去る〈よみがえりつづける記憶の陰謀にさらされる〉ということであるならば、自分にとって金井美恵子の小説を読むことは、まさしく生きるということであるのだ。
また或いは。泉鏡花賞を受賞した際の授賞式後の宴会の席で出た〈こうばこガニの焼きもの料理〉を〈あの時もっと食べておけばよかった〉と悔やむエピソード…その何十年後には、授賞式後の会食にて「この器は、初めて見るわね」と小声で呟く、十三回目の選考委員としての金井美恵子の姿が語られる(磯崎憲一郎「残したのではなく、失ったのではないか?」)ことになるのだと思うと、何かこう、一気に時間というものの質量が襲って来るようで、たまらない気持ちになる。